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求道庵通信(第268号)
★「他力」という言葉ほど、社会一般で元々の意味から誤解され、誤用されている言葉は無いのではないでしょうか。
「自力」はもちろん自分の力のことであり、「自」は自分のこと、自身のことですが、「他力」の「他」は決して、自分以外の他者を指す言葉では
ないのです。
それを、この「他力」の言葉が社会一般で知られるようになってから、何時しか「他」の意味が自分以外の他者と理解されるようになり、他者の力を
あてにして生きる、人まかせにして生きるという様な意味合いとなってしまいました。
そこで、「他力」の言葉には、よく「本願」という言葉も対で付けて、「他力本願」とも示されることから、人にたよるようないき方を「他力本願」
といわれるようになり、本来の意味とは全く異なる間違った使われ方がされるようになりました。
しかし、この「他力」の「他」は、本来、迷いの境涯にある私たち凡夫から見て他である「仏・菩薩」を意味する言葉なのです。
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求道庵通信(第269号)
★仏教において、悟りを開くために自らの力で努力することを「自力」といいます。
自ら悟り開くために努力する「自力」は、決して挫折などしないという、自分の力を信じることのできる人のための教えです。
したがって、「自力」には、自分にはこの努力ができるのだ、必ず成し遂げるのだという強い意志と信念と、人間の想像を超えた長時にわたり持続する
努力が必要になります。
しかし、悟りを目指しても、この様な努力のできる人ばかりではありません。少しくらいの努力ができたとしても、意志が弱く、持続させることの
できない人もいます。
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求道庵通信(第270号)
★仏教の教えは、全ての迷う者を悟りに導き救う教えですが、「自力」の教えの通りに修行して自らの力で悟り開ける人ばかりでは
ありません。
自ら悟りを求めても、厳しい行に耐えきれず落ちこぼれえう人もいれば、ましてや、悟りを求めようともしない人もいます。
その様な、自ら悟り開くことのできない者に対して、仏や菩薩が救いたいという心を起こして(これを本願といいます)功徳の力を与えてくれています。
これを「他力」というのであって、凡夫が他の凡夫の力を当てにすることではありません。
「他力」とは、あくまでも仏・菩薩の衆生を救い取る力であり働きのことです。
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求道庵通信(第271号)
★仏教の教えである、悟り開き仏と成るということは、自我からの開放です。
自我によって、自他を区別・差別して、極端な表現をするなら、全ての人々は自己中心的な生き方に固執して、都合の良いものは大切にしますが、
反対に都合の悪いものは排除して、互いに傷付け合い苦悩する生き方をしています。
その自と他を区別・差別するものが自我であり、自我の開放とは、自と他の区別・差別する心を滅して、自他一如と成ることが悟りです。
そこで、仏に成るための行とは、他者の幸せを自身の幸せと同じく願い行動をしていくことが求められます。これを善行といい、菩薩の行とも
いわれます(令和元年度の通信を参照下さい)。
現在新型肺炎が猛威を振るっていますが、感染者や治療に当たった医療従事者を非難差別して、自分だけは感染してなるものかと
自己防衛に走っている現状を見ても、菩薩行のできる人はいない様に思えます。
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求道庵通信(第272号)
★自らの力で、自他区別の心を滅して一切平等の境地である悟り開く道を「自力」といいます。ところが、自己の幸せに何処までも
執着して、「自力」の道を歩むことのできない者がいます。これが凡夫です。
この凡夫を、どの様な努力を払ってでも、一切平等の悟りの世界である浄土に生まれさせ、悟り開かせずにはおかないという願いを起こされた方が、
阿弥陀如来という仏様です。そして、この願いを「本願」といいます。
そうして、この願いを完成させて願いが叶った、これは願いが願いのままだけで終わらずに、願いの通りに働く力が備わっているので、「本願」と
「力」を合わせて「本願力」と呼びます。
また、一般的に、この「本願力」を、衆生を悟り開かせ救う如来側からの力として、「他力」といいます。
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求道庵通信(第273号)
★大乗仏教における仏・菩薩は、自らの悟りを求めると同時に、苦悩する一切衆生の救いを願い悟り開かせようと働き続ける方です。
仏・菩薩が自ら悟り開くことを「自利」といい、一切苦悩の衆生を悟り開かせ救うことを「利他」といいます。
この両方が完全に叶えられることを「自利利他円満」といいます。ですから、大乗の仏は、自利利他円満の人ということになります。
そうして、一般的には衆生を救い悟り開かせる力は仏・菩薩の側にあるので、私たち衆生からいうならば、他である仏・菩薩の力であるので「他力」となります。
しかし、親鸞聖人は衆生を救い悟り開かせる力が「利他」の働きであることに注目して、他である衆生を救い悟り開かせ利益する力として、「他力」を理解されています。
これは、聖人が独自におっしゃられたことではなく、曇鸞大師が『浄土論註』に示された「他力」と「他利利他の深義」を請けられてのことです。
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求道庵通信(第274号)
★仏教は悟りを目指す教えではありますが、自分だけが悟りを開き、その境地に安住すればよいというものではありません。
自らの悟りを求めるだけでなく、悟り開くことできず煩悩にまみれ苦悩する衆生を救い悟り開かせることをも同時に求める教えでます。
ですから、悟り開き仏になるということは、苦悩する他者を救う者になることでもあるのです。
仏はその存在そのものが、在るがままに自然に、他者である苦悩する衆生を救う働きですから、この在るがまま自然に衆生を救う働きを「他力」というのです。
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求道庵通信(第275号)
★仏教は菩薩の道であり、この菩薩の道とは自分の幸せを求めると同時に他者を幸せにすることにあります。
自分の幸せとは、煩悩を叶えることではなく、他者の幸せを願い叶えることです。
この他者の幸せを完全に叶えられる人を仏と呼びます。
「自力の道」を歩む者は、その菩薩の道を自ら知りこれに向かい進む者です。
これに対して、「他力の道」を歩む者は、仏・菩薩の他者の幸せを叶えることが自身の幸せであるという、真実なる生き方を
教えられることによって、一切苦悩の衆生を救済する仏と成ることに絶えず呼び戻されながら道を歩む者です。
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求道庵通信(第276号)
★浄土真宗の教えの中に「悪人正機」という言葉があります。
この「悪人正機」の意味は、「悪人こそが阿弥陀仏の救いの目当てである」ということです。
しかしながら、ここで言われる「悪人」の意味を取り違いして、間違って理解されることも多いのです。
ここで言う「悪人」の意味は、私たちが一般的に理解している罪を犯している者を指すのではなく、善い事をしようと思い生きながらも、
結局は悪を犯してしか生きられない「凡夫」を指します。
例えば、一匹の犬や猫の命を救って善い事をしたと喜びながらも、多くの牛や豚、鶏の命を奪いそれを食して何ひとつ罪の意識もなく
生活している私たちです。
どの様な生物の命も同じ一つの命であるのに、私たちの都合で同じ命を、奪ってはいけない命と奪ってもよい命に区別・差別しているのです。
この例を見ただけも、知らず知らずのうちに、私たちはどれほど多くの罪を犯していることでしょうか。
このような「凡夫」の救われる道は、「自力」の道ではなく絶対的な「他力」の道以外には有り得ないのではないですか?
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求道庵通信(第277号)
★自らの力で厳しい仏道修業を行じていく「自力」の道は、大変に難しい道であることは、仏教の教えを少しでも学んだ方であるなら
よくご存じのことと思います。
現在においても、修行僧の姿を拝見しては、とても自分には出来ることではないと恐れ入ります。
この難行道に対して易行道である「他力」の道は、厳しい修業もなく楽に仏と成ることのできる教えだと、安易に考えてしまう人もあります。
しかし、易行道といわれながらも、仏をひとえに信じることは大変に難しい事なのです。
移ろいやすい自分(凡夫)の心で、本当に信じ切れるものでしょうか?
実は自分の心で信じようとすることも、「自力」となるのです。
この自力心がなかなか取り払えないので、「他力」もまた難しいのです。
「他力」の教えが説かれる『仏説無量寿経』に「若聞斯経信楽受持難中之難無過此難」とあります。
これは、「この教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。」(『浄土三部経現代語版』本願寺出版)
ということです。
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求道庵通信(第278号)
★自分の心ほど移ろいやすく変わっていくものはないのではないでしょうか。
『法句経』(ダンマパダ)(岩波文庫、中村 元訳)の「心の章」に、「心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。」、「心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するままにおもむく。」
等、私たちの心の当てにならない姿が説かれています。
以前、私の知人に、月に一度しか自宅に帰ることのできない長期出張のある仕事に就いている人がいました。家を発つときに、幼い子供からは「パパまた来てね。」と言われる。また
妻からは「あなた信じてるわよ。」と言われる。と苦笑しながら話してくれたことがありました。
私たちが「信じているよ」と言う言葉の裏には、必ず疑いの心が潜んでいるものです。
私たち凡夫の心で起こす「信心」も変化し移ろいいやすく、疑い心が裏に潜んでいるのです。
凡夫の移ろいやすい心を見越して阿弥陀仏は「他力」に「信心」までも含めて与えて下さっているのですが、この信心を素直に頂くことがまた難しいのです。
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求道庵通信(第279号)
★「自力」・「他力」ともに、仏教で悟り開く実践の道として説かれるものであり、大変に重要な意味を持つ言葉です。
「自力」の道を歩むものであっても、完全に「自力」だけで救われるものではなく、そこには凡人の想像を超えた行者の努力・精進(自力)の上に、最後は仏の力に
助けられて悟り開き救われるものといわれます。
対して、「他力」は阿弥陀仏の力によって浄土に生まれて悟り開く教えですが、この「他力」には、大きく分けると二つの流派があります。
一つには、確かに阿弥陀仏の力によって救われるが、やはり行者自身も何らかの善い行いをしなければならないという、他力の中にも、ある程度の自力を認めて
救われるのだという理解で、他力の要素は強いが自力の要素も含まれるというものです。この自力の要素を「他力」の中の「自力」といいます。
二つには、浄土真宗において、何一つ善い行いのできない凡夫と知らされた上に、すべてを阿弥陀仏の救いに任せ切るという「絶対他力」という理解であり、
この中に自力の要素は全くありません。
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