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求道庵通信(第256号)
★「菩薩」は私達日本人にとっても、また仏教国の人々にとっても身近な存在として大変親しまれています。
日本国内でも、道を歩いていれば、よくそのまま立たれる地蔵菩薩、祠に収められている地蔵菩薩を目にすることも多いものです。
昔話にある『笠地蔵』は、私達日本人なら誰もが知っているほどに有名なお話しで、庶民が菩薩に親しみをもって接していたこと。
そして、その内容からも、仏教的な真実なる生き方が示されると同時に、人々が人生の救いを如何に菩薩に求めていたかが分かります。
この他にも、数多くの菩薩が古くから制作されて、日本各地に残されています。
このように、「菩薩」は現在においても、人々を苦しみの中から救う存在として、また心のよりどころとして、私達の身近に在ります。
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求道庵通信(第257号)
★求道者が悟りを求めて修行を始めてから悟りに至るまでに、その修行の段階として五十二の階位が
いわれます。
どの様に分けられるかというと、順次に十信の十位・十住の十位・十行の十位・十回向の十位・十地の十位・等覚・妙覚の五十二位です。
十信から十回向までの四十位は凡夫で、十地から上が聖者の位となり、等覚は正しい悟りに等しい悟りを得た位、
妙覚は迷いを滅し尽くした究極の仏の位をいいます。
弥勒菩薩はこの五十二位の中の等覚にあたり、その一生を終えたなら必ず仏と成る位です。これを「一生補処の菩薩」と呼びます。
浄土真宗では、「南無阿弥陀仏」の名号のいわれを聞いて信心得た者は、その一生を終えたなら必ず仏と成る「正定聚」の位となるので、
親鸞聖人はその人を、「弥勒とひとし・弥勒とおなじ」とおっしゃられています。
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求道庵通信(第258号)
★「菩薩」が「悟りを求めて修行を続ける人」という意味だけであるなら、悟りを求める修行者の全てが「菩薩」となります。
広義の意味で言うなら、仏道修行する人の全てを「菩薩」という場合もありますが、これは本来の正しい意味とはなりません。
「菩薩」という言葉は、大乗仏教運動の中から生まれてきました。
大乗仏教運動というのは、自身の悟りだけを求めて自己満足するだけでよいのか?自他共に悟り開く道こそが、本当の仏の教えではないのか!
というものです。
ここに、自身の救い(自利)だけでなく、同時に他者を救う(他利)ことに努力する人を「菩薩」と呼ぶようになったのです。
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求道庵通信(第259号)
★自身の救い(自利)だけでなく、同時に他者を救うこと(他利)に努力する人が「菩薩」ですが、そこから自身の救いよりも
他者の救いを第一の目的とすることが、真の「菩薩」の姿となりました。
これは、「菩薩」の行が、他者の苦を抜き楽を与えることを第一とする慈悲の心から必然として現れてくるものです。
ですから、「菩薩」は一切苦悩の衆生が救われない限り、自身も救われることがないのです。
『維摩経』に「あらゆる衆生に病があるかぎり、菩薩も病む。・・・あらゆる衆生に病気がなくなったら菩薩にも病気がなくなる。」とあります。
ここでいう病気とは、衆生が煩悩によって苦悩し続けていることを指します。
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求道庵通信(第260号)
★「菩薩」の慈悲は、「無縁の慈悲」といわれます。
慈悲に三つの慈悲が説かれます。
1.衆生縁の慈悲:現実に災いに遇い苦悩する人を見て、助けてあげたいという心を起こすことです。これは衆生が起こす慈悲ですが、限定的であり、
区別・差別のある偏ったものとなります。
2.法縁の慈悲:悟りによって一切衆生の苦悩を知り、自覚的に救いたいという心を起こすことです。阿羅漢の起こす慈悲といわれます。
3.無縁の慈悲:救いたいという意識もなく無自覚・自然に、そして存在そのままが一切苦悩の衆生を救う相であり、救う心を起こしていることすら
ない慈悲です。これが「菩薩」「仏」の慈悲となります。
この「無縁の慈悲」は区別や差別もなく、「菩薩」「仏」に逆らう者までも一切平等に救うという最高の慈悲であり、大乗仏教の目指すべき
真実なる生き方なのです。
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求道庵通信(第261号)
★仏教の歴史の中で、釈尊が入滅されて百年後頃に釈尊の教えに対する解釈の相違が起こり、仏教教団が分裂して行きました。
しかし、これら教団の比丘たちの関心事は出家して自らの悟りを求めるという自利行だけで、人々を広く救済する利他行は関心の外であり、
在家信者の救済は顧みられませんでした。
この出家者中心の在り方に対して、一般民衆の仏教信仰から出家者自身だけが救われるのではなく、全ての者が救われて行くのが釈尊の開かれた
教えであるとする「大乗仏教」の運動が起こりました。
この「大乗仏教」運動の中で、釈尊の前生である「菩薩」という考え方から、慈悲行を実践して自他の救いを求める者、つまり自利利他の完成を
目指す者として、新たな「菩薩」という考えが成立してきました。
ですから、「菩薩」は自身の救済だけを求める者ではなく、一切苦悩の衆生を救済する大いなる志を持って修行に励む大士であるのです。
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求道庵通信(第262号)
★仏教に、上座部仏教と大乗仏教があります。
上座部仏教は、以前、大乗仏教側から小乗仏教と呼ばれていました。
小乗・大乗の「乗」とは、乗り物を指し、小乗は少しの人しか乗れない乗り物、大乗は多くの人々が乗ることのできる
乗り物の意味です。
これは、少しの人しか悟りを開くことのできない教えか、すべての人々が平等に悟り開くことのできる教えかの違いにもなります。
そうして、小乗仏教の悟りは阿羅漢位を目指すのに対して、大乗仏教は妙覚という最高位の悟りを目指します。
また、小乗仏教は自身の悟りだけで満足するのに対して、大乗仏教は自他共に、すべての衆生の救済を目指します。
自他共の悟りを目指し、特に苦悩の衆生を先に救済しようと働き続ける人を「菩薩」といいます。
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求道庵通信(第263号)
★浄土教において、重要な菩薩として「法蔵菩薩」が在ります。
浄土教の経典である浄土三部経の一つである『仏説無量寿経』に、
「ある国王が王位を捨てて出家して「法蔵菩薩」となり、自身で悟りを開くことができず迷い続けるしかない一切苦悩の衆生を、必ず救って悟りを
開かせる。それができないならば、自身も決して悟りを開いて仏とは成らないと誓われて、その誓いを遂に成し遂げて阿弥陀如来と成られた。」と
説かれます。
この一連の行動は、自分の目先の欲望をかなえていくことの虚しさを出家の姿を通して、私達に教えると同時に、自分だけが先に悟りを開いて
救われれば良いというエゴの生き方を離れて、一切苦悩の衆生が救われない限り、自身も救われないという、自利利他の「菩薩」の生き方を示して
います。
そうして、これが真実の生き方であることを、「法蔵菩薩」の姿を通して表しているのです。
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求道庵通信(第264号)
★「法蔵菩薩」の起こされた願いを「本願」といいます。
『仏説無量寿経』には、「四十八願」として「法蔵菩薩」の起こされた願いが説かれています。
この四十八願の中で一番中心となるものが、今月の通信に示した願いである第十八番目の願いです。
正確には、「設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法」と説かれています。
この「法蔵菩薩」の第十八番目の願いが、諸仏の願いに超えて優れており、また一番の中心的な得意とする願いとなることから、得意を意味する
「第十八番(おはこ)」という言葉が生まれたともいわれます。
私達は、意識をしないうちにも、苦悩は人に押し付けて自分だけが幸せになることを、まず第一の「第十八番(おはこ)」としていませんか?
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求道庵通信(第265号)
★「法蔵菩薩」の真実の生き方を通して、自分では少しも気付くことのできなかった、真実の生き方とは正反対の、苦悩を他者に
押し付けて自分の幸せを求めて生きているのが私たち凡夫の恥ずかしい姿が知らされます。
また、苦悩を他者に押し付けて幸せを求めて生きているのは自分だけではありません。他者もまた私に苦を押し付けて自己の幸せを求めて生きて
いるのです。
これでは多勢に無勢、自身に勝ち目などありません。結局は全ての者が苦悩する不幸な生き方をしているのです。
どこかの大統領、どこかの知事のように「〇〇ファースト」などと言って、それで良しとする人は、他者を苦しめ自身も苦悩する不幸な生き方しか
できない人であると同時に、そのことにも気付くことのできていない哀れな人というべきでしょう。
私たちは、菩薩の生き方を知らされることによって初めて、真実の生き方に近づいていけるのです。
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求道庵通信(第266号)
★「菩薩」は苦悩する衆生の救済を目当てとして、永遠なる努力を続ける人であり、そのためには、どんな苦難に身を沈めても
耐え忍び、努力を惜しまず修行を続ける人でもあります。
何故に「菩薩」は一切苦悩の衆生を救うために、惜しむことなく努力をするのでしょうか?
それは、衆生の苦しみがそのまま菩薩自身の苦しみとなるからなのです。
例えば、親にとって子供が病になり苦しむ、怪我をして痛がるときなど、親自身も苦しみ痛みを感じるものです。そうして、子供の苦しみを
何としても取り除こうと行動するものです。
『維摩経』に、「あらゆる衆生に病気があるかぎり、それだけ私(維摩居士のこと)の病いも続きます。…もしあらゆる衆生に病気がなくなったら、
そのとき菩薩にも病気はなくなります。」とあります。
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求道庵通信(第267号)
★「菩薩」は、その生き方を通して、私たちに真実の生き方とはどういうものであるのか。また、全ての衆生がどうすれば安らかで
幸せにすることができるのかを教えてくれます。
幸せを求めるといっても、自分の幸せを求めることは他者に苦悩を押し付けることであり、結局は、互いに苦を押し付け合って全ての者が苦悩する
しかない不幸な生き方となります。
真実の生き方とは、他者の幸せを願い、他者の苦しみを引き受けて、他者に幸せを与えて行くことであり、それがそのまま自分の幸せになることなの
です。
しかし、私たちはそのことに気付くことが出来ず、自分の幸せを追い求めるだけで、少しも他者の苦しみを引き受けることもなく、互いに苦を
押し付け合って、自他共に苦悩する生き方をしています。
そんな私たちに、「真実なる生き方をする仏にするぞ」と兆載永劫の修行という永遠なる努力をされた方が、「法蔵菩薩」なのです。
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