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求道庵通信(第340号)
★浄土真宗の教えで「往生」と「浄土」は切り離すことのできない関係であり、教えの三本柱の一つに「往生浄土」があります。(三本柱:往生浄土・他力本願・悪人正機)
そして、「往生」と「浄土」をつなげた「往生浄土」ですが、一般的に「往生」は阿弥陀仏の浄土に生まれることであり、「浄土」は阿弥陀仏の西方極楽世界と理解している人が多いのが現実でしょう。
それほどに過去からの阿弥陀仏信仰が盛んであったという証拠でもあります。
日本においては平安時代から鎌倉時代にかけて、貴族から武士そして平民にいたるまで、自らの往生浄土を願い往生浄土教の信仰に帰依する人が大変な勢いで増えてきました。
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求道庵通信(第341号)
★古くは「往生」とは迷いの境界を生まれ変わり死に変わりして輪廻していくことを意味していました。
迷いの境界というのは、六道(六つの境界)が有名ですが、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道をいい、私たちはこの六道を生まれ変わり死に変わりして迷い続けていると説かれます。
手塚治虫氏の『火の鳥』という漫画の中で、ある仏師が悪をはたらき焼け死ぬ間際に火の鳥が現れて、その火の鳥に仏師が「次に私が人間に生まれてくるのはいつか?」と尋ねたら、
「あなたはもう永遠に人間に生まれ変わることはありません」と答えたシーンは、この輪廻の往生となります。
子どもの頃にこの漫画を読んで、この仏師は永遠に地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道という苦しみの激しい世界をめぐり続けるしかないのだなと思ったときに、一種の恐怖を覚えました。
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求道庵通信(第342号)
★「浄土」は「清浄国土」の略で、仏界、仏国、仏刹、浄刹などとも呼ばれます。この「浄土」に対して私たちの住む世界が「穢土」です。
「浄土」は煩悩の汚れの一切無い仏の住む真実の世界であり、「穢土」は私たち煩悩まみれの凡夫が住む六道輪廻の世界です。
そして私たちの住む「穢土」は各人の心の作用によって各人それぞれが作り上げている相対的世界となります。
ですから100人いれば100の世界があり、その世界はそれぞれ異なります。
夫婦、親子、兄弟でもそれぞれが自分の世界を作り上げその世界に暮らしているのですから、意見の食い違いから喧嘩や争いごとが起こるのも当然ともいえるでしょう。
対して「浄土」は無我の世界であり、それは差別や偏見もなく、あらゆるものを一切平等に見る絶対的世界であり、これを仏教では智慧と言います。
ですから諸仏の悟りの世界に違いはありません。
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求道庵通信(第343号)
★「往生」と聞くと「死ぬこと」と思う人が多いのも事実です。
そこで、死に際に生への執着や未練がましいことをすると、「往生際が悪い」などといわれたりもします。
これも「往生」はこの人間としての生が終わることとしか考えられないからいわれることでしょう。
確かに「往生」は現在生きているこの世での生の終わりの意味も持ちますが、それはそのまま次の生として生まれることも意味します。
そして浄土教においての「往生」は、娑婆の苦悩の世界から、悟りの世界である浄土に生まれ仏に成ることなのです。
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求道庵通信(第344号)
★阿弥陀仏の「浄土」に生まれるということは、悟りを開き仏に成ることです。
阿弥陀仏がこの「浄土」を作り上げた理由は、自らの力で悟り開き仏と成れない、いわゆる私たち凡夫を救い仏と成らしめたいという願い(本願)によるものです。
私たち凡夫は、自己中心の心から自他を区別差別して、自己の利益を追い、自身にとって都合の良い者は大事にしても、自己の思い通りにならない者は排除抹殺しようとする、
自他ともに傷つけ合い苦しめ合うという救われようの無い生き方をしておりながら、その恐ろしい姿に気付こうとすらしません。
世界を見渡しても、過去から現在に至るまで何ら変わる事無くこの状況が続いています。
21世紀に入ってもその原因である煩悩を益々増大させて、状況はより一層深刻化しているように思えます。
このような凡夫に、何が真理であるのかを知らせ、煩悩を離れた清らかな世界に生まれさせて真理そのもである仏に成らしめるために阿弥陀仏の浄土が建立され、そこに「往生」
させようと阿弥陀仏自身が働き続けているのです。
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求道庵通信(第345号)
★私たちは阿弥陀仏の「浄土」に生まれると聞くと、今在る私の姿のままで「浄土」に立つように理解することが多いでしょう。
この理解の仕方も、相対的な世界に生きるしかない私たちの思考から現れてくるもので、如何ともしがたいものです。
それで、「浄土」に生まれると聞いてもこのままの姿の私が生まれるのだと理解してしまうのも仕方ないことです。
しかし、「浄土」とは、無我の世界であり、自と他の区別や差別の無い世界です。
確かにこの私が「浄土」に生まれさせて頂くのですが、その姿は私という我を離れた私であり、絶対的真理そのものになるということです。
私という我に凝り固まった凡夫には、本当に難しく理解できないことです。
そこで、親鸞聖人は『高僧和讃』に「安養浄土の荘厳は唯仏与仏の知見なり・・・」(浄土の姿・世界は悟り開かれた、ただ仏と仏のみがうかがい知ることのできる世界である)と
示されています。
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求道庵通信(第346号)
★仏教の旗印(仏教たらしめる目印)として、三法印があります。教えが説かれる中に三方印が無ければ仏教ではありません。
三法印とは、諸行無常印・諸法無我印・涅槃寂静印の三つを指します。
諸行無常印とは、存在する一切のものは変化してやむことがなく移り行くということ。
諸法無我印とは、存在するいかなるものも実体性が無く因縁によって生じたものということ。我の無いこと。
涅槃寂静印とは、諸行無常・諸法無我を自覚したところが真の安住の境地であり悟りであるということです。
無常である自分の存在を常と思い、すべてが無我であるのに自分の我を認めようとするしかない凡夫にとっては、自身の力で「浄土」を知ることはできません。
凡夫の心で思う「浄土」は、煩悩の投影された偽りの世界としか成り得ないのです。
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