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求道庵通信(第328号)
★世の中は昭和時代と比べても、生活は益々便利になってきましたが、それにも増して、不安が増大して
「安心」して生活できない時代となってきたように思えます。
インターネットが普及して、色々な情報に直ぐにアクセスできるようになったり、またSNSで簡単に見知らぬ人とも
通信し合えるようになるなど、今の高齢者の子供のころには夢のような事が現実に出来るようになってきました。
この便利さに伴う反面、偽の情報が拡散されたり、SNSを利用した犯罪も多発するようになりました。
そこで、○○安心マークなるものが考案されるなどしていますが、便利で「安心」した生活を求めながら
不安の増してくる状況は何故起こるのでしょうね?
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求道庵通信(第329号)
★私たちの生活は実のところ、「安心」よりも「不安」の中にあります。
身近なところでは自分の健康や仕事。そして家族の健康や無事などを心配して「不安」になることもよくあります。
また、国や地域の安全を心配したり、させられたりと、本当に心安らかになることなどありません。
例をあげるなら地震の心配、火災の心配、空き巣や強盗の心配、交通事故の心配、戦争の心配等々キリがありませんね。
ウクライナとロシアの戦争にしても、ロシアの安全保障が脅かされるのではないかというプーチン大統領の「不安」から、
「安心」を求めて起こされたものなのでしょう。
しかし、この行動がかえってプーチン大統領の「不安」を増大させているような感じもします。
それにしても、21世紀に入ってこのようなウクライナという一主権国家に対する侵略が起こされたことには
驚きを覚えます。
何故、私たちは「安心」を求めていながら「不安」な状態になるのでしょうか?
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求道庵通信(第330号)
★何故私たちの生活が、「安心」ではなく「不安」の中にあるのかといえば、それは私たちの生きる世界が
安定することなく、常に変化する世界だからです。
全てのものは変化して、何一つとして変化しないものは有りません。
自身の姿を見ても如何でしょうか?。生まれてきて成長し、老いていく。そうして最後は死んでいかねばならないという、
ひと時も同じ状態であることは有り得ません。
変わっていないと思う方がいらっしゃるなら、御自身の10年前の写真と今の姿を見比べてみたら如何でしょうか。
何時までも健康で元気でいたいと思っても、時は残酷なもので身体は老化をしていきますし、健康への「不安」が増大
していきます。
その様な状況の中に生きる私たちにとって、これまた変化する自分の心で「安心」を求めるという事は不可能でしょう。
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求道庵通信(第331号)
★「安心」を求めながらも、私たちが「不安」をかかえてしまう原因は煩悩に有ります。
煩悩とは書いて字の如く、頭を煩わせ心を悩ませるという、私たちの心の姿です。
人間以外の動物は、人の種に一番近いといわれるチンパンジー(人と遺伝子情報が1.2%しか違わないそうです)であっても明日への心配は無いそうです。
ところが私たち人間は、明日どころか何年先の事までも心配して「不安」をかかえてしまい、「安心」することが出来ないものです。
戦国時代に生きた臨済宗の僧、快川紹喜禅師が述べたといわれる「心頭滅却すれば火もまた涼し」という境地、そして「今日は今日・明日は明日」として、何事にも囚われることなく「安心」して生きられたなら良いですが、出来るものでしょうか?
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求道庵通信(第332号)
★在るがままに受け入れることができれば、これほどの「安心」はないでしょう。
仏教を開かれたお釈迦様に次のようなお話があります。
あるとき、お釈迦様が病気に罹られました。すると意地の悪い男が、「悟り開かれたお釈迦様でも病気になって苦しむのですか。」と問うたそうです。
それに対してお釈迦様をは「第一の矢は受けても、第二の矢は受けません。」とお答えになられました。
これは、この生身の身体が有る限りには病気に罹ることも有ります(第一の矢)が、その病気に罹ってもその病気を苦にすることは無い(第二の矢)ということです。
在るがままに受け入れ、不安になることは無いのです。
それに対して私たちは、病気になる前から、こんな病気になったらどうしようと心配し、いざ病気に罹ったならまた苦しむものです。
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求道庵通信(第333号)
★仏法の教えによって、自らの力で何事が起っても動じることの無い本当に「安心」した境地に至ることが出来る聖者であるなら、「不安」に陥ることはありません。
しかしそうではない凡夫にとっては、いつも何かしらの「不安」を持ちながら生きるしかないものです。
そうして、生活や仕事などで厳しい状況となったときや体調を崩し辛い病に罹ったときなど、如何ともしがたい心も押しつぶされるほどの大きな「不安」を抱えざるを得ないのが
凡夫というものです。
ですから、自らの力で本当の「安心」を得ることのできない私たち凡夫には、自分の心で作り出すものには頼ることはできないということです。
私たち凡夫が本当の「安心」を得るには、自身の心に頼ることなく、最高の境地に至り悟り開かれた仏から与えられる「安心」を素直に受け入れる以外にはないでしょう。
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