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求道庵通信(第316号)
★以前に「日常語の中の仏教語」を一年間特集しましたが、読者の方から面白いのでもう一回して欲しいとリクエストを頂いたので、今年は「日常語の中の仏教語U」として特集することにしました。
全ての仏は衆生救済の願いを持ちますが、衆生を救うにも条件があるものなのです。その中心は善いことをしなさいということです。
そもそも、「悪いことは止めて善いことをしなさい」(廃悪修善)ということは全ての仏を通した戒めです。
しかし、これでは廃悪修善の出来ない衆生は救われようがありません。
善いことをしようと思ってもそれが叶わず、悪いことをするまいと思っても悪いことをしてしまう凡夫の救われる道は閉ざされてしまいます。
この本来救われようの無い凡夫の救済を第一の目的として起こされた願いが阿弥陀仏の本願(48有ります)であり、本願の中心となる願いが十八番目の願いなのです。
他の仏の願いと比べて、この十八番目の願いは阿弥陀仏の最も得意とする救済となります。
そこで、法然上人はこの第十八番目の願いを本願の中の本願であるので、「王本願」とおっしゃっています。
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求道庵通信(第317号)
★迷いの世界を欲界・色界・無色界の三界で示しますが、ただ迷いの境界をいうのではなく仏道修行者の完成していく過程を示し、精神の向上する姿を示したものです。
欲界は欲心を起こし欲の生活をしている者のいる世界であり、人間が理性を忘れて本能むき出しの生活を続けている世界です。
色界は物質的な物の有る世界で、欲界のような欲心は無いけれども肉体が存在するために純粋に精神的な高い境地を得ることの出来ない世界です。
この物質の有る色界の絶頂にある天が「有頂天」であり、「有」は形あるもの(物質)を意味し、その最頂であるから「有頂」といい、その「有頂」の「天」で「有頂天」となります。
無色界は物質的な物の上に起こる人間の囚われが無く、肉体を持たず純粋に精神的要素のみからなる世界です。
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求道庵通信(第318号)
★「韋駄天」は増長天の八大将軍のひとつで、足の速いことで知られています。
「韋駄天」が仏宝を取り返した逸話を詳細すれば、以下です。
帝釈天が仏宝である仏牙を天上で供養するために、宝棺を開け仏の口から仏牙を取り天上に帰るとき、帝釈天の後ろに身を隠していた鬼(捷疾鬼:足の速い鬼)がその仏牙を盗んで逃げました。
その鬼を「韋駄天」が走って追いかけて追いつき鬼から仏牙を取り返したという話です。
その足の速さから、韋駄天走りと言われるようになり、ここから足の速い人を「韋駄天」と呼ぶようになりました。
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求道庵通信(第319号)
★「会釈」の会は「和会」の意で、互いに仲良く協力して調和すること。釈は「通釈」の意で、全体にわたって解釈することです。
経典には一見互いに矛盾するように見える説かれ方をしているものや箇所があります。
それは仏が衆生を導くために、説く相手の性質や性格に応じて説き方や表現をその相手に合わせて説くことによるものです。これを「応病与薬」という言葉で表現されます。
その一見矛盾した説かれ方がされる場合でも、内容は真理・真実を説き示すための表現としてなされたものです。
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求道庵通信(第320号)
★「七慢」の一つとしての「我慢」、また「四煩悩」の一つとしての「我慢」等でいわれますが、どれも煩悩のひとつです。
「七慢」は慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢の七つになります。
「四煩悩」は我癡・我愛・我慢・我見の四つで、どちらの「我慢」も、「我あり、我が所有ありと執着して心をして高挙させること、我をたのんでおごりたかぶること」(『仏教語大辞典』)をいいます。
つまり、自分の存在を間違いないものとして、そして自身の所有するものに執着して、他者に対して優越していると高ぶって侮る心の働きです。
この「我慢」がどうして「忍耐すること」の意味になったのかは不明ですが、平安末期に編纂されたとされる『今昔物語』巻1第5には、釈尊の生老病死を断ずる法を説いて欲しいという問いに答える仙人の言葉の中に「衆生の始は寛より我慢を発す。我慢より痴心を生ず。」とあり、ここに「我慢」の語が出てきます。
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求道庵通信(第321号)
★「般若」は梵語の「プラジュニャー」とパーリ語の「パンニャー」の音写になります。
悟りを得る真実の智慧であり、在るがままの真実なる相を見る智慧の眼でもあります。
そしてこの智慧の眼は在るがままに真実を見てそこに安住するのではなく、苦悩の衆生を悟りに導いていく実践の働きとしてあるものです。ましてや、勉強や学問によって習得する知恵とは異なります。
この「般若」が鬼女の面を指すようになったのは、般若坊という僧侶がこの鬼女の面を作成したところから名付けられたという説や、『源氏物語』の中にある鬼の姿と変じた六条御息所の生霊の嫉妬に狂う女の面ともいわれていますが、仏教でいわれる「般若」と鬼女の面の般若とは何の関係もありません。
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求道庵通信(第322号)
★普通に「演説」という言葉を聞けば、ほとんどの人は、選挙での演説を思うでしょう。
現在での「演説」の意味は、自分の主義主張を多くの人の前で述べてそれを知ってもらい理解してもらうことですから、
選挙などで有権者に向かい選挙立候補者が「演説」することは当然のことでしょう。
仏教の「演説」は釈尊が悟りへの問いと悟りの内容を人々に述べることを意味します。
両者とも他者に述べることにはなりますが、我欲にまみれた凡夫が主張を述べることと、仏の一切平等なる普遍の真理を
述べることとは、同じ「演説」でも大きく異なりますね。
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求道庵通信(第323号)
★悟りとは、一切の煩悩が完全に滅せられた状態です。これを真如、一如、一法句と表現し、究極の真理そのものです。
煩悩を断ち切ることの出来ない私たち凡夫にとっては、どうあっても知り得ない状態、相、姿が悟りとなります。
親鸞聖人は、この悟りの相を「色も無し、形もましませず、然れば心も及ばず、言葉も絶えたり」(『唯信鈔文意』)と述べており、色も無く形も無いのですから、私たちにとっては、心で思うことも、頭で考えることも出来ません。
したがって、どの様にも言葉では表現できない相ということです。
悟りとは、悟り開いたもの出なければ決して知ることも出来なければ、表現することも出来ないのです。
ですから、私たち凡夫にとっては、悟りの内容は言葉ではどうあっても言い表すことのできないものであり、表現することが完全に断たれているので、「言語道断」なのです。
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求道庵通信(第324号)
★諸僧の雑事や庶務をしっかりと執り行う役職が「知事」ですが、この「知事」も僧であり、諸僧も悟りを求めそれに励む方たちです。
「知事」は諸僧の悟りの行に必要な手立てを講じますが、諸僧ももちろん自らの欲望を求めるのではありません。
現在の「知事」に置き換えたならば、諸僧が知事を選出する各都道府県民となるでしょう。
したがって、利権や財を求める一部の限られた者の手助けをすることが「知事」の仕事ではありませんし、住みよい社会を作り上げていこうとする各都道府県民の思いを汲みあげ地域を発展させていく人が「知事」と言えるでしょう。
各都道府県民も自分の利益ばかりを求めてはいけないですし、ましてや自身の名声や利益を求めるような「知事」であるなら、それこそ言語道断なことです。
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求道庵通信(第325号)
★蓮華の花は悟り開いた佛・菩薩の座られる場である台座を意味し、また悟りそのものを示すものです。
仏像を拝見すると、仏様は皆、蓮華の花の上にお座りになっているかお立ちになっています。
何故、蓮華の花が悟りを示すものとして表現されるのかというと、蓮華は泥水の中から生えてきますが、その花や葉が泥に全く染まらず清らかなままだからです。
そうして、悟りの世界である浄土に生まれたいと願う者は、皆同じ悟りの世界である極楽浄土(蓮華の花の上)に生まれさせていただくことから、「一蓮托生」といわれるのです。
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求道庵通信(第326号)
★「相続」は物質や精神が前後連続していくことを表す言葉で、多くの用いられ方がありますが、
一貫する意味は同一の種類の事物が前者と後者が異なっても、連続して切れ目なく絶え間なくと続いていくことです。
私たちの迷いの姿、つまり連続して生と死を繰り返している状態も「相続」となります。
さらに、仏教において教えが正しく伝えられ「相続」されることは、大変に重要なことです。
「相続」が正しくなされないならば、自身も迷い、授けられるべき者も迷うという結果になります。
また浄土真宗では、念相続ということがいわれます。まことの信心を頂いた者はどのような境遇となってもその信心が
変動することが無くどこまでも変わらず続いていくことです。
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求道庵通信(第327号)
★2024年11月26日にJAXAの「イプシロンS」ロケット第二エンジンの試験で爆発が起きましたが、
このエンジンの実験では2回続けての失敗となりました。
関係する研究者の皆さんはまず大丈夫と思って実験に踏み切ったことと思います。
しかし「実際」には失敗に終わって残念な結果となってしまいました。
この様に私たちは「実際」という言葉を用いることが多いと思います。
仏教での「実際」の元々の意味は、最高の悟りの相のことであり、異名として「涅槃」や「真如」だけでなく
法界・法性・無相・実相・一如・滅度・無為・常楽・安楽・佛性…などがあります。
親鸞聖人はこの悟りを表す名前は無量に有る(『唯信鈔文意』)と示されていますが、この様に最高の悟りの相を
色々の言葉で表現されても、区別・差別の心を持ち続ける凡夫には本当の悟りの相を知ることはできません。
だからこそ、少しでも悟りの相を凡夫に知らせるために多くの言葉で最高の悟りの相が表現されており、
その中の一つが「実際」となります。
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