求道庵通信 令和5年 (第304号〜第315号)

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求道庵通信(第304号)


古来、人間は善と悪について多くの思考、推考を重ねてきました。
何が善であり、何が悪であるのか?善を行う者が善人であり、悪を行う者が悪人となるなら、どこがその線引きになるのか?等々。
仏教においても、善と悪は悟りを開き仏に成るうえにおいて、重要なテーマとなります。
諸仏の教えとして有名な『七仏通戒偈』が有ります。
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」というものです。
簡単に意味を示せば、「もろもろの悪はしないように、もろもろの善をしなさい、そして自分の心を清くしなさい、これが諸仏の教えである」 ということです。
ですから、仏教では善を勧め悪を嫌い、善の行える者、つまり善人であることが求められ、悪を行う悪人はその悪を廃することが求められますが、 やはりここでも何が善であり、何が悪であるのかが問題となります。

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求道庵通信(第305号)


私たち個々人は、自分のことを棚に上げて主観的に善人や悪人の判断をしてしまうものです。
例えば、「あの人は善いい人だ。なぜなら私に本当に優しくしてくれる。」これに対して「あの人は悪い人だ。私の悪口ばかり言う。」などと おっしゃる方がいらっしゃいます。
これは、自分の感情や都合によって善人や悪人の判断をしている例ですが、優しい振りをして他人を騙す人もいれば、その方を思って善意で 注意してくれている人もあります。 そこで、後から善い人だと思っていたのに悪い人だった。悪い人かと思っていたが善い人だった。などと善人が悪人になったり、悪人が善人に なったりと忙しいものですが、私たちの善人・悪人の判断はこれだけあやふやなものなのです。
これでは善人・悪人が何なのか分からなくなりますね。
ですから、仏教では善を勧め悪を嫌い、善の行える者、つまり善人であることが求められ、悪を行う悪人はその悪を廃することが求められますが、 やはりここでも何が善であり、何が悪であるのかが問題となります。

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求道庵通信(第306号)


善人は善い行いをする人であり、反対に悪人は悪い行いをする人と、私たちは何気なく考えています。
しかし、その判断の前提になる善と悪が真理に適っているか否かによって、善人・悪人の意味が大きく異なります。
仏教において善とは、安穏の業といいます。安穏は平和で穏やかであることを意味する言葉であり、これを実践する行為が安穏の業となります。 ところが、人間社会を見てみると、善である安穏の業とは正反対の、争いや不安に落とすことばかりが行われているのが現実です。
この愚かさに気付かされて、安穏の業を為さない限り、全ての人は悪人と成らざる終えないのです。

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求道庵通信(第307号)


善い行いをする「善人」とは、一時的な人助けをする人ではありません。
苦悩する人の全てを包み、その人の生涯だけではなく次の世までも救い幸せを与え続ける人です。
そうして、自他共に永遠なる幸せを与え得ることを目標に活動する人が、本当の「善人」なのです。
この活動の中に、まず先に自分の幸せを求めるということは有りません。それどころか他者を幸せにすることが自分の幸せとなるのです。
この「善人」に対して、自分の幸せを願い求めるあまりに、互いに苦しみを押し付け合い、自他共に不幸せになっていく人を「悪人」といいます。
「善人」とはいかなる人かをよくよく考えてみたなら、この世の中に本当の「善人」など一人も有り得ません。
その自身の「悪人」の姿に気付き気付かされて、恥じ入りながら、少しでも世のため人のためにと日々生活する人が、この世における「善人」となるのでしょう。

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求道庵通信(第308号)


他者の姿を見て、この人は「善人」だ、あの人は「悪人」だと判断する私たちですが、自分自身を「善人」であるのか「悪人」であるのかと判断することは少ないのではないでしょうか。
それよりも、自分のことを「善人」と思っている人が殆どの様に感じます。
ある講演の中で、来場した方々に「あなたは自分のことを「善人」と思いますか?「悪人」と思いますか?」と質問をしたところ、殆どの方が、一応私は「善人」と思っていると答えられました。
その理由として、「道徳や常識に従って人に迷惑をかけないように生きているから」ということでした。
その様な「善人」同士であるはずなのに、不安や苛立ちの心を起こし、争い事が起こるのは何故なのでしょうね?

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求道庵通信(第309号)


身体で行う悪として、殺生(せっしょう)は生き物を殺すこと、偸盗(ちゅうとう)は盗むこと、邪婬(じゃいん)は不正な男女関係。
口で行う悪として、妄語(もうご)は嘘をつくこと、両舌(りょうぜつ)は二枚舌を使うこと、悪口(あっく)はののしること、綺語(きご)はへつらうこと。
意(こころ)で行う悪として、貪欲(とんよく)むさぼること、瞋恚(しんに)怒り憎しみの心を起こすこと、邪見(じゃけん)(愚痴(ぐち))は道理が分からず、よこしまなものの見方をすること。
以上が十悪の内容です。
これ等十悪それぞれの最初に「不」を付けて、不殺生から不邪見までを十善といいます。

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求道庵通信(第310号)


如来の救いは、「悪人」が正機であり、「善人」は傍機となります。 正機は当の目当てということ、傍機は傍らに置くものという意味です。
この「悪人正機」の思想を表すものとして、『歎異抄』第3章に述べられる内容が大変有名です。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや。 しかるを世のひとつねにいわく、悪人なお往生す。いかにいわんや善人おやと。 この条一旦そのいわれあるににたれども、本願の意趣にそむけり。」
というものです。
現代語訳するなら、「善人でも往生できるのだから、ましてや悪人が往生できないはずはない。 そうであるのに、世間の人はつねに、悪人でも往生できる。ましてや善人が往生できないはずはないと言う。 世間の人が言うことは、一応筋が通っているように見えるけれど、如来の本願の心には背いていることなのだ。」 ということです。
この文章の中には、如来から見る善悪と、私たちの一般的に見る善悪が示されています。

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求道庵通信(第311号)


仏教で求められる「善」は真実の心で行わなければならないものです。
真実の心というのは、我欲の一切入らない無私の心であり、この心から行われる「善」が真実の善となります。
したがって、行った「善」に対して、これだけのことを私はしたという自負の心も無く、 これだけのことをしたから良いことがあるだろうといった見返りを期待することもないものです。
しかし、人間というものは、小さな「善」でも行ったなら忘れずに心に留めてしまい、日時までもはっきり覚えていることも有ります。
反対にされた「善」はその時の感謝の思いも直ぐにも忘れてしまい、恩を仇で返すようなこともよく有ることです。
真実の「善」も何一つできない、ましてや恩を仇で返すようなことしかできない者は「善人」とは言えません。

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求道庵通信(第312号)


私たちが思う一般的な善と悪は相対的なものであり、その人その人の都合によって変わるものです。
この相対的な善悪の判断によって、善人が悪人になったり、また反対に悪人が善人になったりします。
ですから、親鸞聖人は「善悪のふたつ、惣じてもって存知せざるなり。」とおっしゃられていたと、『歎異抄』に述べられています。
そうして、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに。」とまでおっしゃられています。
私たち凡夫のいう善と悪、善人と悪人の評価は、全てが結局当てにならないものなのです。

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求道庵通信(第313号)


仏教の目的は悟りを開いて仏と成ることに有ります。
この仏に成るために、仏の力を借りないで自分の力で悟り開くことができると信じて善い行いを行じる人を自力作善の人といいます。
『歎異抄』第三章の初めに述べられる「善人」は、一般世間でいわれる「善人」の意味ではなくして、この自力作善の人を指します。
それに対しての「悪人」は、自分の力では悟り開くことのできない私であり、仏の救済力によってしか仏に成ることはできない者と知り、 その仏の救済力にまかせきる人なのです。
一般的な善悪しか考えられない人にとっては、理解しにくい表現ですね。

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求道庵通信(第314号)


一般常識では、道徳的、常識的に行動する人が「善人」であり、それとは反対の行動をする人が「悪人」といわれます。
この考えに基づいて「善人・悪人」の往生を考えたなら、「悪人」でも浄土に生まれ悟り開くことができるなら、ましてや「善人」が浄土に生まれ 悟り開くことができるのは当たり前のことと思うでしょう。
しかし、仏教でいう如来の真実の前に自身の「善」を見たときに、絶対的な「善」と言い切れる人は在るでしょうか?
私たちの行う「善」はすべてが私の煩悩の手垢のついたものにしか成り得ません。
「善」を行った功徳にも、真実功徳と不実功徳の有ることがいわれます。真実功徳とは煩悩の心を離れた如来の真実の心でなされたもの、 不実功徳は善いことをしても煩悩の心でなされたもののことです。

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求道庵通信(第315号)


自分の心で判断した善と悪が間違いないものとして、他の人に押し付ける人が目立ってきているように感じます。
コロナ感染症下での自粛警察。他府県ナンバーの車に傷をつけたり、ナンバープレートを曲げたり、「来るな」と張り紙をする人も在りました。
最近問題になっている、SNS上での他者への誹謗中傷も同様です。
しかし、結局は自分の都合で善・悪、善人・悪人を判断しているにすぎないのです。
私たちは人のことを「あの人は善い人だ」や「あの人は悪い人だ」とよく言いますが、「善い人」とは自分にとって居てくれると都合の善い人であり、「悪い人」とは自分にとって居てもらっては都合の悪い人であるという、全てが煩悩の手垢の付いた心からの判断であることを忘れてはなりません。

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