求道庵通信 令和4年 (第292号〜)

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求道庵通信(第292号)


他人の幸せを願い、他人に利益を与えることを「利他」といいますが、一般的には宗教、特に仏教で意味するところのものとは離れて、この「利他」の意味を 捉えている場合が多いように感じます。
経済的にみても、新自由主義が台頭してきて、利益を上げる人々は益々と利益を積み上げて財を成す一方、それから見放された人々は益々収入を下げ格差が拡大し、コロナ禍に おいて顕著になってきています。
その中で、見放された人々は孤立し、支援も受けられず困窮した状況が続いているように思います。
この様な状況を鑑み、支援をしていこう、少しでも手助けをしていこうという行動を「利他」の本質の様に考える人もあります。
もちろん、困窮する人々に寄り添い助けていくということは大切なことですが、仏教の「利他」は自身の欲望から完全に離れた境地からなされるものです。
それは、「自利」と「慈悲」と「智慧」とが結びついたものであり、「利他」のみで語ることができないものです。

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求道庵通信(第293号)


一般的にいわれる「利他」と仏教でいわれるそれとは異なりますが、一般的にいわれる「利他」を否定するものではありません。
他者の苦悩を知ったとき、手を差し伸べ、何とかして救ってあげたいと思うことは、人間の本質としてあることと思いますし、それが人間である証しかもしれません。
そして、苦悩する人に手を差し伸べ救うことができたなら、「利他」した側も大きな喜びを得ることができるでしょう。
しかしここに、実は大きな問題があります。「利他」された側が、「利他」した側の思いよりも喜びが小さかったならどうなるでしょう。
「利他」された側が、これではまだ不足である。もっと援助して欲しい。もっと違うものが欲しい。となることも、よくある話しです。
この様な場合、「利他」した側の思っていた喜びが大きいほど、裏切られたときの怒りも大きくなるのが私たちの心ではありませんか?
また、「利他」を公共の利益や社会の利益と混同している人も見受けられます

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求道庵通信(第294号)


悟りを目指す者が修行し、善行を為して功徳を積む中において、苦悩する他者に利益を与え救っていくことが「利他」です。
そこにある救いとは、その人の欲望をかなえさせていくようなものでは決してありません。
「利他」とは苦悩の元を知らせ、その苦悩の原因にしっかり気付かせその苦しみから解放させる働きと申してもよいでしょう。
もちろんその過程において、いろいろな手立てが用いられます。これを方便といいます。
そして、「利他」は悟りを目指す中、他者の苦悩を知り他者の苦悩が自身の苦となり、自他の区別無く苦悩を除かずにはおかないという、必然的に現れる働きなのです。
そこには、自身が犠牲になってでも苦悩する他者を救うのだ!というような、自身のエゴなど全く入り得ない自然な救済の働きがあります。

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求道庵通信(第295号)


仏教でいう「利他」は、菩薩の行において善行によって功徳を他者に与え救うことも、また仏として他者を救う働きとなることも、他者が苦しみから 解き放たれ安らかになることが、自身の安らぎとなるということに代わりありません。
『讃仏偈』(『仏説無量寿経』の中の偈文)の最後に、「假令身止諸苦毒我行精進忍終不悔」とあります。
これは阿弥陀仏の因位である法蔵菩薩が、一切の苦悩する衆生に本当の安らぎ・幸せを与えたいと願った上に、それを叶えるためなら「たとえ宝蔵菩薩自身は苦しみの毒の中に 沈んでも努力をどこまでも続け悔いることなどない。」という意味です。
法蔵菩薩にとっては、一切衆生の苦しみが法蔵菩薩自身の苦しみであり、その一切の苦悩する衆生を救済することが、法蔵菩薩自身の安らぎ・幸せ(阿弥陀仏と成ること)に 他ならないからです。

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求道庵通信(第296号)


『維摩経』ではこの話に続いて、ある話が出されます。
例えば、長者夫婦にたった一人の子供があった。その一人の子供が病気になって苦しむと、両親ともに心を痛め病気になる。子供の病気が治れば両親の病気も治る。 というものです。
愛する自分の子供が病気になったら、その親も同様に苦しむものです。そして子供の病気を治すためにあらゆる努力をします。その子供の病気が治り、苦しみから解放され 健康になったら、親も同様に苦しみから解放されます。

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求道庵通信(第297号)


仏教の教えから、大乗の菩薩の行がどの様なものかを学ぶことによって、慈悲の心を知ることができます。
慈悲は他者の苦しみを自らの苦しみとすると同時に、その他者の苦しみを抜き、安らぎを与えずにはおかないという心の働きをいいます。
私たち凡夫には、他者の苦しみを、完全に知ってわが身の苦として受け止めることは、なかなかできませんが、苦しむ相手に寄り添うことはできます。
そして、他者がその苦しみから抜け出せたときには、自身も喜びを感じるものです。
苦しみを抱える人に、寄り添わずにはおられない心の働きが、凡夫にとっての「利他」に近付く行動となるでしょう。

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求道庵通信(第298号)


菩薩の慈悲による「利他」の活動は人間にかけられるだけのものではありません。蠅や蚊、蚤の一匹、名も知れない雑草といった 命あるもの全てに向かいます。
そして、その「利他」の活動は、他者を救うために罪を犯すことによって、菩薩自身は地獄に落ちても一切悔いの無い、否、それすらも自身の喜びとなる 行為となります。
例えば、人を刃で傷つけることは、本来大変な罪となります。現在そのようなことをしたら傷害罪で直ぐに逮捕されてしまいます。
しかし、次の様な状況ではどうでしょうか。病で苦しんでいる人が居る。 医者として、病人を救うにはその人の身体を刃で切り開いて病巣を取り除く手術しかないとします。 しかも、少しでも刃の先が狂ったなら、病人の命を奪ってしまう状況でもある。
人を傷つけることは罪となりますが、それでも病人の命を救うには罪を犯してでも行動を起こさなければならない。 そして、その手術に失敗したならば殺人ともなってしまいます。
医者の仕事は、ある意味では本当に命がけの活動ですね。

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求道庵通信(第299号)


私たちは誰もが幸せを求めて生きています。また、自分も含めて全ての人々が幸せであればという思いもあるでしょう。
しかし、ここに自分の幸せを中心にして他者の幸せを求めたならば、そこには本当の幸せは得られないでしょう。
なぜならば、自分の幸せを求めるということは、どうしても他者に苦しみを押し付けることでもあるからです。
口では、「人の幸せのために」と言いながらも、何か災いが起こったなら、「あー、自分でなくてよかった!」と胸をなでおろす私たちです。
ましてや、自身に不幸せが起こったときなどには、「なぜ自分にこんな酷い事が起こるのだ!何故あの憎む者に起こらないのだ」と思う様な 私たちなのです。
節分での豆まきの掛け声を思い出してみて下さい。
「鬼は外、福は内」は、苦しみは他者に押し付けて、自分だけは幸せでありたいという掛け声に聞こえます。
これは幸せを求めながらも、互いに苦を押し付け合い、すべての者が不幸せになる生き方となります。

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求道庵通信(第300号)


私たちはできることならば、苦しみを受けないように、そしてできるだけ苦を避けながら生きているのではないですか。
ましてや、他者の苦しみを引き受けるなど、まっぴらごめん、とんでもない話ではないでしょうか。
ところが、仏・菩薩の生き方は、他者の苦しみを引き受けて、他者の幸せを願うというものです。
しかし、この生き方こそが、真実の生き方なのでしょう。
仏・菩薩は自他の区別を超えた世界に在る方々です。
他者の苦しみがそのまま自身の苦しみとなる。そして、他者の苦しみを除き安らぎを与えることが、 自身の幸せであり安らぎとなるのです。

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求道庵通信(第301号)


私たちにとっての、本当の幸せとはどの様なものでしょう?
何でも自分の思い通りになることが幸せと思っている人が、ほとんどでしょう。
しかし、何か思い通りになって喜んでも、次から次に欲望がわいてきて、それを思い通り叶えるために、さらに苦悩しなければならないものです。
そして、手に入れたものを守るために、また苦しまなければなりません。
『仏説無量寿経』に「田が有れば田に悩み、家が有れば家に悩む・・・また、田が無ければ田が欲しいと悩み、家が無ければ家を欲しいと悩む・・・」 と説かれています。
私たちの欲望には際限が有りません。この欲望の恐ろしさにはっきり気付かされなければ、どこまでも本当の安らぎを得ることはできないでしょう。

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求道庵通信(第302号)


私たちは自身の幸せを求めて、日々努力しています。
個人的には、経済的に豊かになって健康で暮らすことが幸せと思う人も在るでしょう。 また、自分のやりたいことを見つけてそれに挑み達成するが自身の幸せと思う人もあります。
対外的には、経済的に苦しむ人や病気に苦しむ人を助けることが自身の幸せと思う人もあります。
しかし、自身の目標に向かって努力し、その目標が達成できたとしても、なにかしら心の底には不安が必ずあるものです。
それが何かといえば、今ある幸せが崩れていかないかという、漠然とした不安です。
経済的に豊かであってもそれが失われていく恐怖、健康であればあるほど健康を失うことへの恐怖、愛する人が居てもその愛する人を失う恐怖、 苦しむ人を助けてもまだ不満を持たれる恐怖、公平には助けることができず恨みを抱かれる恐怖等々、心から本当の安らぎを得ることができないのが私たちの求める幸せです。
全ての不安を抱えるものに、その不安の元が何であるのかを気付かせて、悟り開き仏に成らせて本当の安らぎを与えることを「利他」といいます。
そして、不安を抱え苦しむ者を「利他」して、それがそのまま自身の安らぎとなることを「自利」といいます。

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求道庵通信(第303号)


曇鸞大師の『浄土論註』下巻に「他利と利他と談ずるに左右あり。もし仏よりして言はば、宜しく利他と言ふべし。衆生よりして言はば、宜しく他利と言ふべし。今まさに仏力を談ぜんとす。」と示されています。
これは、「他」が「利」の前に付くか後に付くかで全く違った意味になってしまう。
「他利」となると他が利されるとなって、衆生の側からの言葉になる。
これに対して、「利他」は他を利益することになって、仏の側からの積極的な救済の言葉になる。仏からの積極的な救いを頂くのだから、「利他」と言わなければならないということです。
何か困難な状況に陥って助けられたときに、私が助けられたと思うのと、私を助けてくれたと感じるのとでは大きな違いが有るでしょう。
私を助けてくれたと感じるときは、私を積極的に助けてくれた方がいて、その方への感謝の思いと、自身の力ではどうにもならなかったという非力の思いが必ず伴うものです。
また、「他」は仏を指し、衆生の側からいえば他である仏が衆生を救うことを「他利」とし、これに対して「他」は衆生を指し、仏の側から他である衆生を救うことを「利他」とする場合もあります
どちらにしても「利他」とは仏の側からの積極的な救済、つまり他力回向であることを示す言葉であることに違いは有りません。

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