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求道庵通信(第280号)
★「玄関」が仏教用語であることを知っている方は、あまりいらっしゃらないのではないでしょうか。
外出するときには玄関から出て、帰ってくれば玄関から入る。何も考えず当たり前に毎日出入りしている私たちです。
「玄」の意味は、奥深いこと、また奥深い道理ということ。神秘的な自然の姿や美しさを幽玄という言葉を用いて使いますね。
「関」は門や扉を閉じる横木の意味から転じて、重要な所で通行人の出入りを調べる関所の意味となった文字です。
そうしてこの二文字をあわせて、「玄妙な道に進む門戸」、「仏門に入る入り口」の意味となりました。
ですから、本来玄関から入るということは、よほどの心構えがないと入ることができなかったのです。
今でも禅宗では入門するときに、庭詰(にわづめ)という入門が許されるまで玄関で横座りして式台に手を着け頭を下げたまま、
大きな声で入門を長時に亘り乞い続け、修行への心構えを示さなければならない厳しい作法があります。
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求道庵通信(第281号)
★「上品」や「下品」での「品」の意味は、区別・差別・たち・性質の意味で、衆生の区別を表します。
浄土経典の一つである『仏説観無量寿経』に衆生の区別が説かれており、
上品:上品上生輩・上品中生輩・上品下生輩・・・大乗仏教の教えをしっかりと実践できる人
中品:中品上生輩・中品中生輩・中品下生輩・・・小乗仏教の教えをしっかり実践できる人、社会の善をしっかりできる人
下品:下品上生輩・下品中生輩・下品下生輩・・・悪いことしかできない人
の九種です。
この中、特に下品下生輩、略して下下品(ゲゲボン)は、すべての悪を完全に備えており、あらゆる悪を行うしかない最悪の人を指しますが、これが私たちの姿でもあるのです。
口では人のためと言いながらも、最後はやっぱり自分がそして家族が我が子が可愛いいとしか思えず、結局は自己中心的な生き方しかできない人。
苦しむ他者を見て、気の毒だなとは思いながらもその人を捨てていくしかできない人であり、その自身の姿に気付くこともできずに、私は良い人と思っている人です。
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求道庵通信(第282号)
★釈尊が出世されて教化する苦悩の世界が、「娑婆」といわれる私たちの住み生活している世界です。
そこで、釈尊を「娑婆の化主」(衆生を教え救い悟りに導く主)ともお呼びすることもあります。
「娑婆」は決して楽しみの世界ではありません。苦しみの世界であり、娑婆に生きる私たちは、その苦しみを受けて、その苦に耐えながら生きて行かなければならないのです。
その苦しみの元は私たちの煩悩なのですが、その煩悩まみれの姿に自ら気付くこともできずに、その煩悩によって苦しんでいるのです。
煩悩に手足を付けたのが人間だといわれることもあります。
ですから、他者から見ればとても幸せそうに見える方でも、必ずや何かしらの苦しみを抱えて生きているのです。
もし、自分の人生が思い通りに行っているという方がいらっしゃたならば、よくよくご注意下さい。それはあり得ないことが起こっているのですから・・・。
「祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす おごれる人も久しからず 唯春の夜の夢のごとし」(『平家物語』)のとおりです。
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求道庵通信(第283号)
★仏教の根本命題である「人生は苦なり」は、自身の姿を正しく見つめた結果として導き出される、私たちの真実なる相(姿)です。
その苦の内容として、「四苦八苦」が説かれます。
1.生苦:生まれる苦しみ(注:ここでの「生」は生きるという意味ではありません)
2.老苦:老いる苦しみ
3.病苦:病いの苦しみ
4.死苦:死んでいかなければならない苦しみ
この四つの苦しみを「四苦」といい、私たちの根本苦となります。
5.愛別離苦:愛する者と別れて行かなければならない苦しみ
6.怨憎会苦:憎む者とも顔を突き合わせて生きなければならない苦しみ
7.求不得苦:求めても得られない苦しみ
8.五蘊盛苦:生きようとすることに執着するこで生じる心身の苦、前の七つの苦をまとめた苦しみ
以上を合わせて「四苦八苦」といいます。
人生は苦であり、この苦の原因が煩悩である。その煩悩によって苦しんでいるのだから、煩悩を滅して安らかな境地である悟りを開きなさいと「仏教」は教えるのです。
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求道庵通信(第284号)
★仏教において貪欲(とんよく)を離れるということを求められます。
貪欲とは貪りの心、思い通りにしたい心をいい、私たちを苦しめる煩悩のことでもあります。
この貪欲の心を離れるために、自身の所有物を他社に喜んで与えていくことが、「旦那(檀那)」=「布施」です。
ですから、「旦那(檀那)」=「布施」は、足らない人に所有物を与えて相手を救うことだけでなく、自身の所有を手放すことによって自分自身の貪りの心を
無くするために行動することをいいます。
これは、求める相手に対して、求めるままに与えてゆくことによって、所有物に対しての自身の執着を離れることになるからです。
この「布施」を最初に、菩薩の行として「六波羅蜜」の実践があります。
「六波羅蜜」とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つをいいます。
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求道庵通信(第285号)
★丈夫という言葉もありますが、これは一人前の男子、立派な男、ますらお、といった男子を褒めたたえた呼び名としてあります。
また、丈夫だけでも、正道を直進して退転しない勇気ある者という意味があります。
この「丈夫」に「大」の字をつけて偉大なる仏・菩薩を指します。
仏を表す言葉(仏の十号)の一つに、調御丈夫(じょうごじょうぶ)という言葉もあります。
これは仏の徳号であり、調馬師が馬を調教するのと同じように、
世の中いろいろな人がいますが、それぞれに調伏し制御して悟りに向かわせる偉大な人という意味です。
なお、同じ丈夫と書いて、体が丈夫だ、この布地は丈夫だ等、壊れにくくてしっかりしているという意味で用いられることも多いですが、こちらは別語です。
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求道庵通信(第286号)
★仏教に説かれる宇宙観は壮大なもので、私たちの生存している今の時代を「賢劫」といいます。
現在の前にあった時代を「荘厳劫」といい、今の世界である「賢劫」が破壊消滅したら、次に「星宿劫」の時代が来ると説かれています。
前の時代が20劫かけて破壊消滅し、そして次に何もない時間が20劫続き、そこから20劫かけて世界が出来上がり、次に生き物が生存する時間が20劫が続き、
そしてまたその世界が20劫かけて破壊消滅していく。
「劫」とは私たち人間の頭では理解することのできない、長い時間をいい、全部で80劫が一つの時代となります。
まるで、現代の宇宙創成で言われている、ビッグバンみたいなことが、2千年以上前にインドでは説かれていたのです。
そして、今、私たちの生きているこの世界(宇宙)を支えているものが「金輪」であり、この「金輪」の一番底の端の際を、「金輪」の際であるので、「金輪際」と呼ぶのです。
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求道庵通信(第287号)
★「お盆」の始まりとなった『盂蘭盆経』について。
お釈迦様の十大弟子の一人に、神通第一の目連尊者という方がいらっしゃいました。
亡き母を思い、今、母親は何処に在るかを、神通力を以って探してみたところ、母親は餓鬼道に堕ちていました。
何故母親が餓鬼道に堕ちたのかというと、我が子である目連のために食事などを手に入れましたが、余ってもそれは目連のものとして、他者に分け与えようとしなかったからでした。
餓鬼道に堕ちたは母の姿は、飲食ができず骨と皮だけのそれは悲惨な激しい苦しみの中の状態でした。
そこで、悲しんだ目連は鉢にご飯を盛って、神通力を使って母親に届けましたが、母親がそのご飯を口に入れようとしたとたんに、燃えて炭となり食べることができません。
目連はその様子を見て、悲しさのあまり号泣し、お釈迦様に救いを求めました。
そこでお釈迦様は、安居の終わる7月15日に十方の僧侶に供養をすることによって、母親が餓鬼道から救われることを教え、目連尊者はこれを実行して、母親は餓鬼道から救われた。
というものです。
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求道庵通信(第288号)
★仏の悟りの境地は、「不可称」・「不可説」・「不可思議」の三句でよく表現されます。
不可称とは、「はかることができない」という意味ですが、何と比べてみても何ものにも例えることのできないことと理解したほうが分かりやすいでしょう。
不可説は、どうあっても言葉で表現して説明できないこと、言い表すことのできないものということです。
何ものにも例えることができない、そして、言い表すこともできないのですから、私たち凡夫にとっては、理解することも、思い考えることもできない「不思議」としか
言い得ないのです。
そうして、その「不思議」な仏の悟りの内容は、決して救われようのない凡夫を、必ず悟りの世界である浄土に生まれさせ悟り開かせ救うという働きです。
これは救われるはずのない者が必ず救われるという有り得ないことを起こすのですから、やはり「不思議」としか言い様がありません。
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求道庵通信(第289号)
★乳を精製したものの中で最上の味をした「醍醐」がどの様なものであるかは、現在はっきりとはわかっていません。
おそらくは、ヨーグルトかチーズの様なものではなかったかと想像されています。
『涅槃経』に五味を説いて、その中「緒薬の中醍醐は第一なり、善く衆生の熱悩乱を治す」として、一切の病を治癒する「醍醐」と同じく、『涅槃経』に説かれる救いの内容を、
最上の教えであるとして「醍醐味」に譬えている。
浄土真宗においては、一切の苦悩する衆生に念仏一つ与えて一人も漏れることなく救い取る阿弥陀仏の本願他力の働きを、最上の教えとして「醍醐味」に譬えます。
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求道庵通信(第290号)
★「祇樹給孤独園」の、「祇樹」は祇多太子の林園のこと。「給孤独」は身寄りの無い者・孤独な者に食事を給し施した須達長者をいいます。
祇多太子の所有地であった林園を須達長者が大金を出して買い求めて、これを釈尊に寄贈しました。
この地がもと祇多太子のものであり、これを買い求め寄贈した人が須達長者であったので、寄贈を受けた釈尊がこの二人の名前を組み合わせて「祇樹給孤独園」と名付けるように
いわれので、この名が付けられたといわれています。
祇園精舎の精舎は寺院のことをいい、須達長者が僧坊(寺院)を建てて寄贈したので、「祇樹給孤独園」を祇園精舎ともいいます。
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求道庵通信(第291号)
★この「油断」の内容は『涅槃経』巻20高貴王菩薩品第22之2に出典されるものです。
昔、油の鉢を持つ者がうっかりその鉢を落とすと、罰として殺され、命を断たれた。(『角川漢和中辞典』)
おそらくは当時、油は大変に高価なもので、それをこぼすことは命にも匹敵することではなかったからではないでしょうか。
そこで、このような譬えが経典にも説かれたのだと推測します。
菩薩の目標は、自らの救済と共に苦悩する衆生の救済です。これを自利利他といいます。この目標を達成させるには、世間の愉楽に引きずられるようなことでは、
決して不可能です。
ですから、仏が行者である菩薩に、種々の誘惑に引きずられることなく菩薩の目標に向かって精進する者こそが、菩薩道を歩む菩薩であることを、この譬えをもって
示しているのです。
当てはめれば、「王」は仏、「家臣」が菩薩、「油」は戒律、「断」が無常の自覚、「大衆の中をめぐり歩く」が菩薩の行を邪魔するする種々の誘惑となるでしょう。
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