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求道庵通信(第244号)
★「回向」は、ふり向ける「主体者」と、ふり向けられる「対象者」と、ふり向け・ふり向けられる内容である
「ものがら」の三つから成り立っていますが、「主体者」にとって、「対象者」は、どの様なことがあっても助けなくてはならない者であり、
また、決して捨てることのできない者なのです。
そうして、その決して捨てることのできない者を、慈しみ育み助ける内容が、「ものがら」となります。
親鸞聖人の和讃に
「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」
がありますが、如来が主体者であり、その如来にとって、苦悩の有情が決して捨てることができなかった対象者となります。
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求道庵通信(第245号)
★「回向」は、仏教各宗でいわれます。
普通には「回向」は、自身が善を行い功徳を積み、その功徳を自身の悟りのために他者に振り向け、衆生の悟りために振り向けること、
また、死者の安穏ために振り向けることをいいます。
他方、浄土真宗においては、何一つ真実の善の行いなどできず、一つの功徳も積むことのできない凡夫と知らされた上に、佛の側から
悟り開く因として、振り向けられ与えられるものとして「回向」があります。
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求道庵通信(第246号)
★「回向」は、仏教各宗でいわれます。
普通には「回向」は、自身が善を行い功徳を積み、その功徳を自身の悟りのために他者に振り向け、衆生の悟りために振り向けること、
また、死者の安穏ために振り向けることをいいます。
他方、浄土真宗においては、何一つ真実の善の行いなどできず、一つの功徳も積むことのできない凡夫と知らされた上に、佛の側から
悟り開く因として、振り向けられ与えられるものとして「回向」があります。
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求道庵通信(第247号)
★「回向」されるものがらである「功徳」が不純な心からなされたものであるなら、それはもう「功徳」とはいえません。
ここでいう不純とは、純粋な心でなされたものと思っても、その下地が気付く気付かずにかかわらず、私た凡夫の煩悩から現れたものをいいます。
何故なら、凡夫の心から起こす善は、偏りがあるからです。
良いことをするのですが、その良いが良いで終わらない凡夫の「善」です。
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求道庵通信(第248号)
★「回向」は自身の悟りのため、また他者の悟りのために功徳を手回し振り向けることです。
自身の悟りのための「回向」を「菩提回向」といい、他者の悟りのための回向を「衆生回向」といいます。
どちらの「回向」も悟りのために功徳を手回しすることですから、その「回向」される功徳は、真実清浄の心から起こされたものでなければなりません。
何故なら、煩悩の全てが完全に滅された清浄なる相が悟りであり、その悟りを完成するには、煩悩が少しでも混ざっているものによっては成し得ないからです。
したがって、「回向」される功徳そのものも、真実清浄の心から完成されたものでなければならないのです。
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求道庵通信(第249号)
★「回向」する功徳そのものが、真実清浄の心から完成された真実功徳でなければなりませんが、雑念だらけの凡夫には
その様な功徳を「回向」することができません。
これはそのまま、凡夫が自らの力で仏に成るという道が閉ざされているということです。
凡夫が仏に成るには、真実清浄の心を持ち、その心によって完成された功徳が凡夫に「回向」されなければなりません。
この凡夫のために、「回向」される真実功徳のものがらと成られたのが、「南無阿弥陀仏」という仏です。
「南無阿弥陀仏」が手回しされ、凡夫に信心が与えられ、念仏申す身に成らされ、念仏申す人生を歩まされ、そうして命終のとき、
仏と成らされるのです。
全てが「南無阿弥陀仏」という仏の「回向」によって成仏させられるのであって、凡夫の側には成仏の因は何一つ有りません。
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求道庵通信(第250号)
★慈悲は抜苦与楽という意味で、他者の苦悩を知り、その苦悩に同感し、苦悩を抜いて楽(安らぎ)を与えるということです。
そうして、この慈悲の心によって私たち凡夫の苦悩に同感されて、本当の楽を与えようと働くお方が仏であります。
凡夫の苦悩というのは、自己を中心として、自己を先として幸せを求め、互いに苦を押し付け合い全てが苦悩するしかない姿を指します。
この凡夫の苦悩の生き方に気付かせて、真実の生き方に向けさせる働きが「回向」によって手回しされているのです。
真実の生き方とは、仏と同じ生き方に目覚めさせられることです。
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求道庵通信(第251号)
★仏の大慈悲心よって、「回向」がなされ、その内容である大慈悲心で完成された「南無阿弥陀仏」が私たち凡夫に手回しされています。
ですから、「南無阿弥陀仏」は、仏の名前ということだけではなくして、回向されるものがらでもあるのです。
「南無阿弥陀仏」は、仏の真実心から起こされた慈悲と智慧によって出来上がっている仏ですから、「南無阿弥陀仏」を受け取るということは、凡夫の私が
仏の真実心を賜ることです。
これによって、凡夫とも知らないで生きている私たちが、真実の生き方に気付かされ、真実の生き方に変えられて行くことでもあります。
真実の生き方とは、凡夫が仏に成る道を歩ませて頂くことです。
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求道庵通信(第252号)
★真実の生き方と、それと正反対の生き方とはどういうものでしょう。
佛教において真実の生き方とは、仏になる道を進むことです。これは我欲を捨てて、他者の幸せを願い他者の幸せのために生きることです。そうして、
これがそのまま自身の安らぎとなる生き方です。
これに対して、正反対の生き方は、自分の幸せばかりを願い、他者に苦悩を押し付けてでも自分だけは安らかでありたいという自己中心的な生き方と
なります。
私たちは自分では気付かないうちに、正反対の生き方をしているものです。節分の豆まきの掛け声を考えてみてください。
互いが他者に鬼を押し付けて、自分だけは幸福を求めていますが、それとも知らずにこの行事を行っています。
このような危ない生き方をしている自身の姿に気付かせていただける。これも「回向」の大きな働きです。
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求道庵通信(第253号)
★真実の生き方は、「南無阿弥陀仏」の「大慈悲心」そのものであり、「大慈悲心」が「南無阿弥陀仏」の本体でもあります。
「南無阿弥陀仏」そのものが「大慈悲心」の活動体となります。
慈悲に、衆生縁の慈悲・法縁の慈悲・無縁の慈悲の三種が説かれます。
衆生縁の慈悲は私達衆生の起こす慈悲、法縁の慈悲は阿羅漢の起こす慈悲、無縁の慈悲は如来の慈悲をいい、「大慈悲心」は無縁の慈悲の究極的な作用を言います。
無縁の慈悲は慈悲の心を起こしている意識もなく、一切が自身という思いから自然に顕れる心の作用です。
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求道庵通信(第254号)
★よく、地獄に落ちる、餓鬼道に落ちるということがいわれますが、そういう世界があるということではなくして、私たちの生き方によって、
それらの世界を、自らが描き作り出しているのです。
今、世界で起こっている多くの悲惨な現状も、真実の生き方とは正反対の夫々の人々のエゴによって、描き作り出している姿です。
人間は、まず自分の暮らしが一番大事であり、自身の生活に影響が無い時は、色々ともっともな批評をしますが、自身の生活をを脅かす者が出てきたなら、
それを排除し、抹殺する行動を取るものです。
そうして、極端な表現に思えるでしょうが、自身にとって得になる基準を他者に押し付けて、これが正義だと主張しているのです。
自己の幸せを追い求めるしかない者、他者の犠牲の上に自身の幸せを作り上げ、それに気付かずに罪の意識など全く無く、善人の思いでいる私なのです。
その私たちに、真実の生き方がどういうものであるのかを教え、その真実の生き方が出来ない中においても、真実の生き方に近づけ救う働きが如来の
「回向」なのです。
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求道庵通信(第255号)
★仏とは、ただ悟り開き自身がその悟りの境地に住し悦に入っている者ではありません。
仏はその存在そのものが、苦悩する衆生を救済して、すべての衆生を悟り開かせる働きなのです。
ですから、苦悩の衆生が存在する限り、働き続けるのです。
その働きかけが、私たち凡夫に「一切苦悩の衆生を救済する仏に成らしめる」という「往相の回向」です。
「往相の回向」によって、「南無阿弥陀仏」の名を呼ぶ(念仏申す)身と成らされ、「南無阿弥陀仏」の名を聞くことによって、私たちの本当に目指すべき目標が
「一切苦悩を救う仏に成る」ことであることに気付かされます。
往生浄土した後は、「南無阿弥陀仏」と同じ悟りを開かせて頂き、「一切苦悩の衆生を救済する仏」に成らしめられます。
そうして今度は、残された苦悩の衆生を救済する働きを自然にさせて頂く。これを「還相の回向」といいます。
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