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求道庵通信(第232号)
★科学の発達した現代に生きる人々にとって、「浄土」の存在は理解しにくいことでしょう。
そうして、「浄土」の中でも一番知られている阿弥陀仏の浄土である極楽浄土という言葉を聞くと、その言葉の印象から、人の欲望を叶えてもらえる極めて楽を与えられる世界であり、
人間が考え出した死後に行く理想郷のような世界としか考えられない人も多くいらっしゃることと思います。
しかし、「浄土」はあくまでも悟り開かれた仏陀の世界のことであり、ましてや、死後の世界を指すものでもなく、人の欲望が叶えてもらえる様な世界ではありません。
悟りの世界であり悟りの境地であるため、煩悩を持ち続ける私たち凡夫には、決して知ることのできない世界でもあります。
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求道庵通信(第233号)
★悟りの世界である「浄土」は清らかな世界という言葉で表現されますが、この「清らか」の意味するところは、一切の我欲を消し去った状態をいいます。
その一切の我欲を消し去った状態が悟りであり、またその状態から世界を見たなら、全てが平等なる光輝く世界となるでしょう。
しかし、凡夫は我欲にまみれ、自他を区別差別したうえでしか世界を見ることしかできません。
それゆえに、娑婆世界、穢土とは別に浄土を立てて、佛力によって凡夫が生まれ行かねばならない世界として浄土が有るのです。
浄土の清らかな姿(佛心)を通してのみ、自身の我欲まみれに生きる穢土の姿が明らかにされますが、それと同時に人間としての真実なる生き方、悟り目指す往生浄土の生き方に
転換されていきます。
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求道庵通信(第234号)
★「浄土」は無我の世界であり、それはそのまま真実なる智慧の世界でもあります。
智慧とは第一に、あるがままに見ることであり、分別を離れ、自他の対立や差別を離れた境地です。
第二に自他の対立や差別を離れるということは、自利利他、二利円満を完成するものです。
「自」は悟り開いた佛のことであり、「他」は衆生を指します。また、「二利」も佛と衆生の二者が共に利益を得ることで、悟りの智慧そのままが、衆生を悟りに導く働きとなります。
この悟りの智慧に対して、凡夫である私たち衆生は、どこまでも分別心を起こし、自と他を対立させ区別差別してしか生きられない、悲しい存在なのです。
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求道庵通信(第235号)
★我執にまみれ、煩悩だらけの凡夫にとって、佛の悟りの世界である「浄土」は決して知りえることのない隔絶した世界です。
しかし、凡夫と「浄土」がどこまでも隔絶したままであるなら、その「浄土」は凡夫にとって無きに等しいものとなってしまいます。
ところが、「浄土」は凡夫に知りえぬ佛の悟りの世界であると同時に、衆生である凡夫を悟りに導き救い仏に成らせる働きをも有する世界でもあります。
ですから、「浄土」は悟りの世界としてただ在るということではなく、常に凡夫救済の働きをする活動体でもあるのです。
その凡夫救済の働きをする活動体を「方便法身」といいます。
有名な「方便法身」の佛として「阿弥陀佛(南無阿弥陀佛)」が在られます。
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求道庵通信(第236号)
★私たちが何気なく仏様と呼んでいますが、その仏様にもいくつかのお姿があります。
まず大きく分けると「法性法身」と「方便法身」のお姿があります。
「法性法身」のお姿は、お姿といっても、色もなく、形もなく、私たち凡夫には心で想像することもできない、言葉で言い表すことも出来ない仏様の姿です。
この「法性法身」に対して「方便法身」のお姿は、先月号(第235号)でも説明したように、私たちに分かるお姿を持たれた仏様です。
そうして、「法性法身」と「方便法身」がそれぞれ違う仏様であるかというと、難しいですが、これまたそうではありません。
「法性法身」から「方便法身」が出られ、また反対に「方便法身」から「法性法身」に戻られるのが、衆生を救い取って下さる仏様のお姿であり、お働きなのです。
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求道庵通信(第237号)
★「浄土」は悟りの世界をいいますが、ただの世界ということではありません。
「佛身」そのものが悟りの世界である「浄土」ともいえます。
そうして「浄土」はまた「智慧」そのものの世界であり、「智慧」のままに働いている世界でもあるのです。
「智慧」は衆生を真理に目覚めさせ救う働き(衆生救済の活動体)で、そのあらわれが「南無阿弥陀佛」という「方便法身」の佛です。
「浄土」はそのまま、「智慧」の働きによって、「佛」の姿をもって私たち凡夫に常に働きかけているのです。
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求道庵通信(第238号)
★阿弥陀仏の「浄土」は、自ら悟り開くことの出来ない凡夫のために建立された世界です。
これは、迷い続ける凡夫だからこそ、悟りの世界である「浄土」に生まれさせ、悟り開かせ救わずにはおかないという、阿弥陀仏の大慈悲心から出来上がっています。
その「浄土」の世界から、「南無阿弥陀仏」という凡夫にも知ることの出来る姿を現して、私たち凡夫を救う力が働いていることを示されたのです。
阿弥陀仏の「浄土」が存在することは、自ら悟り開けぬ凡夫が、必ず「浄土」に生まれて悟り開かせて頂けるという証明です。
あとは、私たちがその救いの働きに素直に気付かされるだけです。
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求道庵通信(第239号)
★悟りの世界である浄土の本体は、無我の真実なる相であり、我欲から離れられない私たち凡夫には決して知ることの出来ない姿です。
しかし、凡夫に知れないままでは、救済の働きが作用し続けていることに気付かれぬままとなります。
その救済の働きあること、作用し続けていることを示す相が、方便法身として現れ、国土荘厳・仏荘厳・菩薩荘厳の三つの相として現れずに終えなかったのです。
この三つの相は、真如法性である法性法身から自然(じねん)に現れたものであり、結局は真如法身に収まるものです。
法性法身と方便法身の三つの相が相入れ合う姿が浄土でもあります。
これを「広略相入」と表しています。
広は国土荘厳・仏荘厳・菩薩荘厳の三つの相、略は法性法身を指し、広のままが略であり、略のままが広となります。
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求道庵通信(第240号)
★現代は生きていて当たり前、死ぬことは不幸なことであり可哀想なことと思われているように感じます。
しかし、死ぬということは全ての命在る人間が抱える苦悩でり、死なない者は無いのです。この世に生まれた人間の死亡率は100パーセントなのです。
生きていて当たり前ではなく、死んで当たり前なのではないでしょうか。
また、、この世を仏教では老少不定の界といいますが、自分の死ぬ時期も分からない、いつ死んでも何の不思議もない命の世界を生きているのです。
ところが、私たちは、死んでいくのは他人であり、自分はまだまだ死なない大丈夫と思いながら、自身の命の行き先を真剣に考えようとはなかなかしません。
でも、何時かは必ず死んでいかなければならない命と自覚したなら、その私の命の本当の行き先を求めずにはいられないはずです。
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求道庵通信(第241号)
★私の外側ばかりに目を向けて、物事を考え求める場合においては、自己というものをなかなか見つめることはできません。
しかし、自分の内側に目を向け、自分の命というものを真剣に考えたとき、「私一人」という単独者の立場に立つことになります。
仏教は自己の内面を深く掘り下げ、自己とは何かを求める教えでもあります。
曹洞宗の開祖である道元禅師は著書の『正法眼蔵』に「仏道をならふというは自己をならふなり」と示していますが、自己とは地上にただ一人しか
存在しない「私一人」のこと。
この「私一人」という自覚は、自分の命の在り様(死んでいかなければならない命)に目覚めたときに顕れるものです。
そして、「私一人」の自覚とは、「死」が彼方の問題ではなく、今現に生きている私そのものの上の大問題となることです。
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求道庵通信(第242号)
★死んで行かなければならない私の命と知らされた時、自身の力ではどうあっても解決できない命の行き先が、
阿弥陀仏によって既に作り上げられていた。これが「浄土」なのです。
死ぬのではない、「浄土」往って生まれるのだ。これが「往生浄土」です。
もう二度と迷いの中に生まれるのではなく、悟りの世界に生まれ、仏と成らせて頂く。これを、生死(しょうじ)の迷いを繰り返すことのない世界に
生まれさせて頂くので、「無生生」(むしょうのしょう)といいます。
そして、仏の智慧と慈悲そのものと成り、衆生を憐れみ、救い取る働きをさせて頂く、阿弥陀仏と同体の悟りを開かせて頂くのです。
「智慧」は救われようのない衆生と見抜かれ、その衆生を浄土に間違いなく生まれさせる力であり、「慈悲」はその救われようのない衆生を憐れみ、
何としてでも救わずにはおかないという心です。
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求道庵通信(第243号)
★「浄土」と「阿弥陀仏」、呼び方は違っていても、それは私たち凡夫に手立てとして(方便)示されただけにすぎず、同体のものです。
ですから、「浄土」に生まれ「阿弥陀仏」の同体の悟りを開かせて頂くということは、「浄土」という土地に立ち自身が別個に存在するということではなくして、
「浄土」の働きそのものになることです。これを「一如」といいます。
即ち、如来の智慧と慈悲の働きそのものと一体に成ることです。
そうして自他の差別区別ない身となり、全ての命が自分の命となり、差別区別の煩悩の中で苦悩し続ける衆生を、憐み、思い、救い続ける働きそのものと成ることが、
往生浄土することです。
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