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求道庵通信(第220号)
★私たちもいろいろと願いを起こすことがありますが、その願いはなかなかかなわないものです。
世界各地で人々が憎しみ合い、テロや戦闘などで互いに傷つけ合う状況があります。
おそらくはほとんどの人々が「この様な状況は無くなればよい。互いに理解し合って、平和に暮らせれば良いのに。」と願っていることと思います。
しかしながら、素晴らしい願いであるにもかかわらず、その願いはちっとも実現しません。
それは何故かというと、私たちにはその願いを実行し成し遂げるだけの力が無いからです。
それではと、武力を以って平和を実現させようとしますが、これはまたより深い憎しみの連鎖となって、互いに争い続ける結果になってしまいます。
身近な生活の中にも、大同小異で同じようなことをしては、安らかに生活したいと願いながら、人を恨み怒りの心を起こしては、互いに傷つけ合っている私たちです。
人類はなんと愚かな生き物であるのかが知らされます。こういう生き方をしてしまう私たちを、救われようのない迷い続ける凡夫というのです。
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求道庵通信(第221号)
★阿弥陀仏からご覧になったならば、凡夫は他者となります。その他者を救いたいという願いが「本願」であり、その他者を必ず救う働きが「力」です。
そこで、「本願力」を「他者である凡夫を必ず救って下さる、願いと力」であることから、「他力」とも、「他力の本願」とも、「本願他力」ともいうことができるのです。
もちろん「他力」は「自力」に対することばであって、「自力」は、自分の力で悟りを開くことであり、「他力」は、阿弥陀仏の衆生を悟り開かせる力ことです。この「自力」「他力」共に、
あくまでも「悟り」を求める、仏道の歩みを前提にしていわれるものです。
「自力」で悟り開けない者は、阿弥陀如来の凡夫を悟り開かせて下さる力「他力」によって、救われよということなのです。
ところが、この「他力」をただ他人の力と理解している人がとても多いように感じます。困ったものですが、中には自力本願というような、あり得もしない造語まで使う方もあります。
しかし、「他力」はあくまでも阿弥陀仏が、他者を利益する力のことです。
ですから、他者を利益する力という意味であることから、「利他力」と表現する真宗の学者さんもあります。ひょとすると、この方が分かりやすいかもしれませんね。
親鸞聖人は主著の『教行信証』行巻に、「他力と言うは、如来の本願力なり」とはっきりと示されています。
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求道庵通信(第222号)
★ほとんどの方々は、仏様のお姿を仏像の形として理解しているかもしれませんが、あの仏像のお姿は、悟りそのものを知ることの出来ない私たち凡夫に、あくまでも
悟りの存在を知らせるための手立てとして在られるお姿です。
本来の悟りの姿(無我の世界、本来は自も他も無い在り様)は、我によって区別差別して、都合の良いものは愛し、不都合なものは憎み抹殺して生きるしかない私たち凡夫には、
決して知ることの出来るものではありません。
ですから、「阿弥陀仏」の本来の悟りのお姿を知ることはできませんが、その知ることの出来ないお姿から、私たちに分かる手立のお姿となって現れ下さった仏様が「南無阿弥陀仏」
という名号の仏様なのです。
「南無阿弥陀仏」の名号によって、本願成就の阿弥陀仏の働きを知る。それはそのまま、「本願力」の願いのままに必ずこの私を救って下さる働きの中に生かされていることを知らされる
ことでもあります。
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求道庵通信(第223号)
★「本願力」によって救われるということは、私たちの罪の深さ重さに気付かされるということでもあります。
いったい私たちはどれ程の罪を犯して、今まで来たことでしょう。それに、全く気付くこともなく自分は良い人、善人と思って生きているのが私たちの姿なのです。
しかし、悲しいことに自分でも気付かず罪を作りながら生きています。それも今生だけでなくして、始めも分からない無始以来、罪を作り重ねてここまで来たのです。
生存のためとはいえ、どれ程の他の多くの命を犠牲にしてきたことか。自身の都合のためどれ程の人を欺いてきたことか。そうして、心の底まで見つめてみたなら、
どのような思いを抱えていることか。
高価な衣装を身に着けている人でも、粗末な衣装を着ている人でも、それらの衣装を脱がして素っ裸にしたら、さらに皮膚も剥ぎ取ってみたら、そうして心を割って中を覗いて見たなら
いったい何が見えるでしょう。
そこに蠢いているものは、財を求め、地位を求め、異性を求めている本能欲以外の何物でもないでしょう。
そして、その欲望を満たすためには、親しい知人や肉親さえも裏切るような利己心ではないですか。
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求道庵通信(第224号)
★仏教の教えとは、煩悩によって苦悩の人生を送らなければならない。そこで、苦悩の元である煩悩を滅して、安らかな境地で生きることを勧めます。
ところが、衆生である凡夫は、煩悩と聞いてもその煩悩が何であるのかを知ることはなかなか知ることが出来ないのが現実です。
そうして、煩悩とはたまに出てくる欲望だけのように感じて、誰かと比べて自分は煩悩が多いであるとか、少ないであるとかを思う程度の人もいますし、反対にどうせ凡夫だと
居直る人もいます。
しかし、煩悩はその時々に出てくるようなものではなく、身口意の三業全てが煩悩によるもので、いうならば私たちの生活そのものが煩悩なのです。
ですから、凡夫というのは煩悩に手足を付けたものという表現もあるほどです。
その煩悩によって罪を作り続けていることにも、凡夫自身には気付くことが出来ないのです。
煩悩まみれの生活と罪の深さに気付かされるには、凡夫を煩悩有るままに往生成仏させて救って下さる「本願力」に遇わない限り、凡夫には不可能です。
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求道庵通信(第225号)
★世の中に「恥知らず」という言葉がありますが、その言葉を知っていても「恥知らず」がどういうものであるのかを知ることがないと、どれ程「恥知らず」について
論議しても分かることはありません。
恥知らず同士で「恥知らず」は誰それだと話しても、結局は自身が「恥知らず」であることに全く気付くことはありません。
「恥知らず」が何であるのかを本当に知る人に教えられて、初めて恥知らずと知ることができます。
これと同じで、煩悩まみれに生き続ける恥ずかしい凡夫の姿も、凡夫同士で「これが恥ずかしい凡夫というものだ」と話し合っても、決して気付くことが出来るものではありません。
凡夫とは何たるものかをはっきり知り得ている如来の真実心に遇わなければ自身の恥ずかしい姿に気付かされることはありません。
その真実心が「本願力」となって、常に私たちを包み働き続けているのです。
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求道庵通信(第226号)
★全てが関連しあってそれぞれの命が存在しており、本来は何一つ単独で存在する命は有りません。
ところが、私たちはそういう関連しあって在る命であることに気付かず、自分一人で生きている様に思い違いして、自身の要求ばかりを通そうと、
他者を排除し、抹殺するような生き方をしています。
しかも、そのような生き方をしていることにさえ、まったく気付くこともなく、自分は善人と思い違いをして生きているのです。
その、偽らざる自己中心的な姿に気付かせて、本当の命の在り様に目覚めさせてくれるはたらきが「本願力」です。
念仏申す往生浄土の道を歩むということは、本当の命の在り様に気付かされて、何一つ自身に関係のない命はないと知らされることによって、
心からの感謝と感動の生活が与えられることでもあります。
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求道庵通信(第227号)
★一般的に、仏教のイメージは先祖供養のように思っている人が大変多いと思います。
今月は各地方で旧盆を迎えます。この時期にお墓参りに行かれて、亡くなられた愛する故人を偲ばれる方も多いことでしょう。
しかし、本来の仏教は亡くなった者への儀礼ではなくして、苦悩を抱え死んでいかなければならない、今ここに生きる私たちの苦悩を解決するものであり、
その苦悩の解決した姿が悟りでもあるのです。
そして、悟りに向かう道を仏道といいます。これは悟りを求める者の実践の道です。これがいわゆる修行といわれるものです
ところが、自ら悟りを開こうとも思わず、ましてや修行も何一つできないのが凡夫と呼ばれる私たちです。
その凡夫に悟りに向かう道を与え、悟り開かせる力が「本願力」なのです。
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求道庵通信(第228号)
★「本願力」に遇うということは、仏教の目的である仏に自ら決して成ることのできない凡夫が、仏と成らせて頂くことです。
その仏に成らせて頂く生き方とは、私たちの人生が、悟りに向かう道を歩むことでもあります。これを言葉を変えて表現するなら、念仏申す人生を歩ませて頂くということです。
その念仏申す人生とは、如来の智慧の光に照らされながら、常に自身の凡夫の姿に気付かされると同時に、煩悩によって踏み外し迷い続けるしかない人生
(自身の知恵ではそれにも気付かない)が、成仏への真実なる人生に変えられることなのです。
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求道庵通信(第229号)
★普通、恩といえば、誰かの働きかけによって、自分に都合よく進んだときに御恩を受けたと考えるものです。
そうして、それが自分の力でここまで出来たと自惚れ、自慢をするようなことになります。これが自己肯定の姿です。
親が子に対して、「育てられているのは誰のお蔭と思っているのだ。」という思いは、自己肯定のよい例でしょう。
これに対して、子のお蔭で親に成らせてもらえた。自分が立派な親だから子供が立派に育ったのではない。
全てが御恩であったと、感謝の人生を送らせて頂く。これが自己否定の姿といえるでしょう。
事実、親は子に感謝し、子は親に感謝する家庭は争議もなく明るい家庭となりますが、反対に、自らを肯定する夫婦親子の場合は、
争いごとの絶えない家庭となっています。
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求道庵通信(第230号)
★何事もなく平和に生活していると思っている私たちですが、実は多くの御恩によって生かされているのです。
平和に暮らせるのは、自分は悪いことはしないで、良いことをしているからだ。悪いことを思っても、これは悪いことだと分かるから止められる。
これは自分が善人だからと思う私たちです。
しかし、これは全て御恩によることです。
良いことを心に思い浮かべたり思いつくのも御恩であり、悪いことを悪いことだと思い、止めようとすることも御恩なのです。
全てにおいて、良いことをしようと思うことも、悪いことは止めようと思うことも御恩なのです。
今、私たちが此処に存在していることが御恩によるのです。
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求道庵通信(第231号)
★今此処に私が人間として生きていることを考えたとき、どれ程の御恩によって存在していることでしょうか。
何かしら、当たり前の様に生きていると思っていますが、自分が生きていることは、自分の力によるのではではなく、一切の恩によって生かされて生きているのです。
その恩に気付かせて下さるのが、本願力の働きでもあります。
自分が善人であると思っている場合、恩は感じられないものですが、本願力によって自身の罪の深さに気付かされたとき、その罪深い自身が生きていることの不思議に
また気付かされます。
しかも、私たちの命は、本来いつ死んでも何の不思議もない命なのです。
その命が今此処に在るということは、御恩によって生かされている以外にはないのです。
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