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求道庵通信(第208号)
★ 人が人生につまずいたとき、愛するものを亡くしたとき、望むものが得られないとき等々、その理由は様々でしょうが、
自分の力ではどうあっても解決できない問題を抱えたとき、何かにその救いを求めずにはいられなくなります。
そのようなとき、人が宗教に救いを求めることも多いのですが、その宗教に入信するとき、そこには、精神的にしろ、物質的にしろ、
何らかの利益を求めていることは間違いないでしょう。
この何らかの利益を求めるとき、自分の力ではかなえられない欲望をかなえてもらおうと思って宗教に入信したならば、それは大きな誤りとなります。
いずれ裏切られて、より一層深い苦悩の中に落ちていくだけとなります。
真の宗教とは、人間の欲望にあわせて利益を与えるものではなく、欲望を抱えて止まない人間の本質を教え、自分自身の本質を知らされることによって、
そこから新たな人生の歩みを与えてくれるものでなければなりません。
これこそが、真の宗教的利益といえるものです。
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求道庵通信(第209号)
★ 真の宗教は、人間の際限のない欲望に気付かせ、その欲望を追い求めることが、かえって自身を苦悩の淵に落とすものであることを
知らせてくれるものです。
私たちは、自身の欲望をかなえて生きたいとする思いから離れられず行動する凡夫ではありますが、それを神仏に求めても本当に要求を満たしてくれることなどないことにも
一面では気付いています。
そもそもが、今ここに人間としての命として在ることが、大きな利益を受けていることではないですか。
真宗の利益は、私たち衆生の側から、祈り求めるものではなく、信心を頂くと同時に、如来の側から与えられるものとしてあります。
存覚上人(第三代門主の長男)は、『持名鈔』に「たとへば人ありて種をまきて稲を求めん。まったく藁をのぞまざれども稲いできれば藁おのずから得るが如し。」と
例えをもって記しています。
往生浄土の道を求め信心得る者は、自ら希求しなくても、往生浄土と同時に現世現生の利益を得ることができるのです。
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求道庵通信(第210号)
★ 人間は自分の思い通りに暮らしたいと願うと同時に、自分にとって不都合なことが起こらないで欲しいと願いながら
暮らしている人がほとんどでしょう。
確かに、自分にとって不都合なことが起こることは、困ることであり、信じたくもないことです。
しかし、どれ程自分にとって不都合なことが起こって欲しくないと願っても、不都合なことが起こってくるのが、人生の偽らざる現実です。
そこに、人生の不安・苦悩というものが現れてくるのでしょう。
そのようなときに、その不都合な現実の結果の理由を自分以外の何かに求め、それにおののき、また責めても、より一層苦悩する生き方になるばかりです。
それに対して、思い通りにならない人生の真実なる相にしっかり気付かせてくれるものが、本当の利益といえるものです。
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求道庵通信(第211号)
★科学の発達した今日においても、 自身に起こる禍福に対して、人間の力の及ばない何か(神や霊など)に影響されていると考えている人も
多くあり、自身の除災招福のために、色々な祀りごとを行う人もいます。
ましてや、800年も前の、親鸞聖人の御在世の頃に生きた人々にとっては、自身の禍福を左右する目に見えない冥衆の存在は、決して否定しえないものとして
考えられていたことでしょう。
しかしながら、目に見えない何ものかである冥衆によって、人生の禍福が決まり人生そのものが左右されるということは、仏教の教えである「因果の道理」に
反することです。
そして、自身の禍福を冥衆によるものとする考え方は、かえって不安を増大させて、より苦悩する不自由な人生を送ることになります。
これらに対して、聖人はあえて人間に禍福をもたらすといわれる冥衆を全面否定することをされずに、念仏を称える身にならせて頂いたのなら、冥衆は災いを
与えるものではなく、かえって念仏者を守って下さる方々となるのだとして、浄土真宗の教えが、怖れ不安の人生から人間を解放し独立させて、心安らかなる
生活に転換させることを「冥衆護持の益」で示されたのです。
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求道庵通信(第212号)
★仏教の目的は、自身が本当に目覚め悟り開き仏に成ることです。
しかしながら、私たち凡夫は煩悩にまみれ、本当に目覚めることもなく、決して自らの力では悟りを開き仏になることのできない存在です。
そのような凡夫に、必ず悟り開かせてくれる間違いない働きである智慧の名号を、如来が手廻しして与えて下さっているのです。
究極の利益とは、この名号が与えられていることであり、このことに気付かされることが、真宗の信心といわれるものです。
これは、以前にも書きましたが、凡夫が煩悩有るままに如来の智慧を賜ることに他なりません。
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求道庵通信(第213号)
★一般論からいえば、悪がそのまま善に成ることなど考えられないことです。
悪を止め、善を行うことによってはじめて、それが善となるのが常識でしょう。
そうして、悪を完全に滅して、善を為し得たとき、はじめて悟りが開かれるのです。
しかしながら、悪を止めたいと思っても悪を持ち続け、善を行なったとしても、その善がすぐに帳消しになってしまう様な私たち凡夫です。
その凡夫の悪あるまま、本来悟りなど開けないままに、それを転じて善と為し、必ず悟り開かせて下さる如来の智慧の働きを「転悪成善の利益」といいます。
これが、阿弥陀如来の智慧である本願力の働きなのです。
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求道庵通信(第214号)
★浄土真宗においての念仏は「南無阿弥陀仏」と称えることです。
そうして、念仏する対象は何であっても、「南無阿弥陀仏」の六字の名号以外に有りません。
どの仏様であっても、「南無阿弥陀仏」と礼拝させて頂くならば、よろずの仏様はそれぞれのお徳を以って私たちを護って下さるのが「諸佛護念」ということです。
その諸佛のお護りによって、喜びのときは喜びのままに、苦悩のときは苦悩あるままに、それによって有頂天にもならず、また苦しみに自身を見失うことなく、
自分の念仏申す往生浄土の道を歩ませて頂くのです。
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求道庵通信(第215号)
★人間、褒められることは嬉しいものですが、その褒めてくれた相手が、どの様な者かを知ることも大切です。
人間は自身の利益のために働いてくれる者を褒める場合が大多数ではないでしょうか。
今、日本を代表する会社で大きな問題が起こっています。
社長に褒められようと部下たちは頑張ったのかもしれませんが、それが重大な結果を引き起こしています。
大なり小なり人間の社会は、利益を追うために、愚かにもこの様な行動をしているのが事実でしょう。
愚かな考えしかできない人間に褒められて喜ぶより、人間の命の在り様を本当に知り教えて下さる佛様から、
「よく一番大切な命の問題に気付きましたね。」と褒められることの方が喜ばしいことです。
そして、佛様から褒められることは、全ての人々を幸福にする生き方でもあります。
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求道庵通信(第216号)
★私たちの目で見える「色光」と異なり、「心光」は目に見えない如来の智慧の働きを光で示したものです。
如来の智慧の光に包まれ照らされていることに気付かされたなら、貪欲・瞋恚・愚痴といった三毒の煩悩に苦しめられる本当の自分の姿を知らされると同時に、
その煩悩をかかえたままの私が、如来の智慧の働きに収め取られ護られていることにも気付かされます。
これが、如来の智慧の光の働きであり、真宗の信心の姿でもあります。
そうして、信心得た者は、如来の智慧の働きそのものが、浄土の活動そのものであることを見い出すのです。
それは、全ての命の関連しあった働きを感じ、その大きな働きである活動体の中に今度は自分が生まれさて頂くのだと、心に大きな喜びとして自覚されるものです。
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求道庵通信(第217号)
★阿弥陀如来の凡夫の救済を思うに、本来苦悩の世界を迷い続けるしかない凡夫が、浄土に生まれ悟り開かせて頂けることを知ったならば、
只々その恩に感謝するばかりです。
その阿弥陀如来の救いは、凡夫が煩悩を抱えたままに、如来の智慧を賜ることでもあります。
そして、如来の智慧を賜ることによって、凡夫の頭では知る由もなかった、を初めて知らされます。
私たち一人ひとりの存在の真実なる姿とは、それまで自分一人で生きているように思っていたものが、決してそうではなかった。何一つ自分自身に関係のないものはなかった。
あらゆる全てのものに支えられて生かされている自分であるということです。
世界、国、社会、家族など等…、何を取り上げても、すべてが縁によって繋がり生かされている私たち一人ひとりの命であると知らされ、そこに感謝と喜びに
生かされると同時に、それらの恩に報いて生かされる利益が、「知恩報徳の利益」です。
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求道庵通信(第218号)
★本願念仏の教えは、自らの力ではどうあっても悟り開くことのできない凡夫が、念仏申す身にされて、命終の時、直ちに浄土に生まれさせて頂き、
そして悟り開かせて頂く教えです。
しかし、訳もわからぬままに念仏さえ称えていれば救われる教えではありません。
往生浄土させて頂くことは、念仏申す人生を歩むことではありますが、この歩みは、そういう凡夫だから救わずにはおかないという如来の慈悲から出でた、如来の智慧である名号
(南無阿弥陀仏)を素直に受け入れて、自身の救われ難い凡夫の本当の姿を知らされたうえに、自身の姿に慚愧し恥入ると共に、そのお恥ずかしい私が救われるという、感謝と喜びの
人生を歩むことです。
信心賜り、この感謝と喜びを得た者にとっては、その喜びを与えてくれる教えを周りの人々に伝えずにはおられない思いともなります。
そうしてこの行動は、そのまま如来の慈悲行に参加することにもなるのです。
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求道庵通信(第219号)
★浄土真宗の現世利益の中心が、この第十益である「入正定聚の益」です。
他の九益は、常に阿弥陀佛の摂取不捨の光明に護られ、いつどこで命終を迎えても、必ず往生成佛するに決定しているという正定聚の安心感から得られる利益です。
仏教の最大の目的は、自身が悟りを開くことにあります。
「入正定聚の益」は、仏教の最大の目的であ「悟り開く身」に定まることで、もう決して迷い続けることなく、必ず往生浄土して悟り開かせていただけるという大安心となります。
これが浄土真宗の如来より賜る「信心」の中身です。
信心頂いた者は、陰に日向に、冥衆に護られ、諸佛に護られ、阿弥陀佛に護られ往生成佛させて頂ける大安心によって、死んでどうなるのかという不安もなくなり、
どのような困難に遭遇しようとも、感謝と喜びと共に力強く生き抜く念佛申す人生を歩ませて頂くのです。
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