求道庵通信 平成26年 (第196号〜第207号)

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求道庵通信(第196号)


阿弥陀如来の「阿弥陀」は梵語の「アミターバ」と「アミタユス」という、二つの意味を持ちます。
「アミターバ」は無限の光明という意味であり、「アミタユス」は無限の寿命という意味です。
そうして、光明は如来の智慧を表わし、寿命は慈悲を表わします。
ですから、阿弥陀如来の持つお徳は、光明(智慧)と寿命(慈悲)の二つが離れてはありません。二つが合わさっての如来です。
「十二光」は如来の光明(智慧)の働きを表わすだけで寿命(慈悲)のことはいわれてはいませんが、この光明の働きの裏には如来の寿命の働きも 含まれて表現されていることを知らねばなりません。

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求道庵通信(第197号)


阿弥陀如来の十二光を、親鸞聖人は浄土和讃にそれぞれ讃嘆されています。
第一の「無量光」については 「智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かふらぬのはなし 真実明に帰命せよ」と詠まれいます。
「如来の智慧の光は無量であって量ることが出来ない。ありとあらゆる迷いの衆生は、この如来の智慧の光に 摂め取られないものは一人もいないのである。だからこそ如来の決して間違いのない救済の力に信順しよう。」と、 私達に勧められています。

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求道庵通信(第198号)


浄土和讃で、第二の「無辺光」については 「解脱の光輪きはもなし 光触かふるものはみな 有無をはなるともべたまふ 平等覚に帰命せよ」と詠まれいます。
「悟りに至らしめて下さる智慧の光明は全宇宙にみちみちて限りがない。この光が衆生に触れ、その光に遇う者すべては、 迷いを離れるとお説きになる。自ら悟りを開かれただけでなく、一切衆生を悟り開かせて下さる如来に信順しよう。」と、 私達に勧めて下さっています。

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求道庵通信(第199号)


第三の「無碍光」については 「光雲無碍如虚空 一切の有碍にさはりなし 光澤かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ」と詠まれいます。
「如来の光明は大空の雲の様に妨げられるものは無く、また光明の広がりは際限が無い。全ての障害も妨げにならない。 如来の光明は沢を潤す水の様にその恵みを受けないものは無い。私たちには思いもよらない恵みを与えて下さる如来を信順しよう。」と、 私達に勧めて下さっています。

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求道庵通信(第200号)


第四の「無対光」について 「清浄光明ならびなし 遇斯光のゆへなれば 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ」と詠まれいます。
「清浄な阿弥陀仏の光明には対比するものは何もない。この光明に遇う、すなわち信心を頂いたならば、 全ての苦しみの束縛から断ち切られる。私たちの最後のよりどころである如来に信順しよう。」
そして、第五の「炎王光」については 「佛光照曜最第一 光炎王佛となづけたり 三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ」と詠まれ、 「阿弥陀仏の光明は炎の様に盛んに光り輝き、それは他とは比べられないほどに、一番勝れているので光炎王佛と名付けるのである。 その輝きの働きは、地獄・餓鬼・畜生という真っ暗闇を照らし破って下さる。その如来を頼みにしよう。」と、 私たちに勧めて下さっています。
なお、親鸞聖人は『御和讃』と『正信偈』で、「炎王光」を「光炎王」とされていますが、どちらでも同じ意味です。 『仏説無量寿経』には、「炎王光」と説かれています。

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求道庵通信(第201号)


「清浄光・歓喜光・智慧光」の三光は、私たちに直接作用する阿弥陀如来の智慧の顕れを光で示したものです。
私たちには、各人がそれぞれに正しいと思っていること、これが正義だと思っていることがあります。 ところが、その正義の御旗を振りかざしながら、その正義同士の対立や争いごとの無くならないことでしょうか。
この思いこそが「三毒」にまみれた煩悩丸出しの姿なのですが、それに気付くことができないのも、また私たちの姿でもあります。
最近の世界の事件を見ても、ウクライナの出来事や、タイでの出来事も、ぶつかり合っている双方共に自分が正しいと思い込んでいるところから、あのような事件に発展するのでしょう。
そうして、互いに傷つけあっていますが、正義の裏には、自分の思い通りにしたいという「三毒」まみれの我執が必ず隠れているものです。
私たちの生活においても、大同小異の「三毒」まみれの生き方をしていますが、その姿に気付かずにいるのが事実でしょう。
このような罪をつくってしか生きられない凡夫の姿に気付かせ、少しずつでも「三毒」を滅する働きをするものが、この三光なのです。

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求道庵通信(第202号)


「清浄光」は、一切においてむさぼりの心の無い、ただ他者を救うという心から現れた如来の姿を光によって表されたものです。
如来の光明はそれ自体が清らかであって、すべての煩悩を離れているだけでなく、衆生の煩悩を除き、清浄ならしめる働きを有するので「清浄光」と名付けられています。
聖人は御和讃で「道光明朗超絶せり 清浄光佛とまうすなり ひとたび光照かふるもの 業垢をのぞき解脱をう」と詠まれ、 「阿弥陀仏の悟りの光明はよくとおり何ものにも超えてすぐれており、だからこそ清浄光佛と名付けられるのです。ひとたびこの阿弥陀仏の光明に照らされたなら、 悪業煩悩が除かれ如来と同じ悟りを開かさせて頂けるのです。」とお示し下さっています。

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求道庵通信(第203号)


「歓喜光」は、怒り憎しみの一切無い心で、私たち衆生を憐れみ照らし続ける如来の働きを、光の姿で現されたものです。
この如来の「歓喜光」の働きに気付かされて初めて、自身の恐ろしい怒り憎しみの心を知らされ、自身の姿を省みることによって、 感謝と喜びの人生を歩ませて頂けることでしょう。
聖人は御和讃で「慈光はるかにかふらしめ ひかりのいたるところには 法喜をうとぞのべたまふ 大安慰を帰命せよ」と詠まれ、 「阿弥陀仏の慈悲の光明が遠くどこまでも照らし被せ、その光のいきわたるところには、信心の喜びを得ることができるとお説き下さっている。 衆生を憐れみ大いなる安らぎと喜びを与えて下さる阿弥陀仏をよりどころにしなさい。」とお示し下さっています。

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求道庵通信(第204号)


真実の智慧が無い私たちは、自分の愚かな知恵を頼りに幸福を求め、毎日あくせくしてはいますが、真の幸福は得られず、 結局は愚痴の人生を送り続けるばかりではないでしょうか。
こうなったのもあのせいだ、誰かのせいだと、思い通りにならない原因を他に求め、他者を羨み、不平不満ばかりの惨めな人生を送っている人の なんと多いことでしょう。
在るはずない命を頂き、その命はすべてに支えられた有り難い命であったと気付かされて、はじめて愚痴の人生でははない、感謝と報謝の喜びの 人生を歩むことができるのです。これこそが、信心を賜った念仏申す人生です。
聖人は御和讃で「無明の闇を破するゆえ 智慧光佛となづけたり 一切諸佛三乗衆 ともに嘆誉したまへり」と詠まれ、 「智慧も無く愚痴ばかりで、如来の智慧を疑う私たちのこころを破ってくださる。だから智慧光佛と申されるのです。一切の諸佛、菩薩、三乗の方々も、 みな共に阿弥陀仏の光明の徳をほめたたえられていらっしゃるのです。」とお示し下さっています。

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求道庵通信(第205号)


不平不満の愚痴の人生は、あまりに惨めな生き方です。
何でも自分の思い通りになる、そして何でも当たり前と思い違いしている人生ほど、苦しい生き方はないでしょう。
今の日本は、蛇口をひねればお湯さへ出てくることが当たり前のような社会ですが、それがはたして当たり前のことでしょうか?今一度立ち止まって、 考えてみる必要があるでしょう。
夏前にスリランカに旅行しましたが、各家庭に大きな水瓶があり、雨期にその水瓶に水を貯め、それを生活用水としている地域もありました。
これを思うとき、日本はなんて恵まれた国であろうかと感じます。
当たり前の思いには、不平不満が起こりますが、感謝の思いは出てきません。
すべてが当たり前のことは無く、有ることが難い中に、私たち一人ひとりが、互いに支えられながら生かされていることに気付かせてくれる働きが 智慧光です。
そこで初めて、すべての命の尊さを知ることもできます。

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求道庵通信(第206号)


聖人は、第九の「不断光」について
「光明てらしてたへざれば 不断光佛となづけたり 聞光力のゆえなれば 心不断にて往生す」と詠まれいます。
「阿弥陀佛の光明が絶えることなく照らし利益を与えてくださる。だから不断光佛と名付けるのです。 その如来の光明の不思議な働きを聞いて信じるのであるから、信心も絶えることなく浄土へ往生することができるのです。」
そして、第十の「難思光」については
「佛光測量なきゆえに 難思光佛となづけたり 諸佛は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称ぜしむ」と詠まれ、
「阿弥陀佛の光明は佛以外のものには測ることができない。だから凡夫には思い測ることもできないので難思光佛と申し上げる。 十方諸佛が、阿弥陀佛の心不断で衆生を往生させることを感心され、衆生である凡夫ごとこものを往生させる阿弥陀佛の功徳を褒めたたえられる。」と、 おっしゃられています。

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求道庵通信(第207号)


聖人は、第十一の「無称光」について
「神光の離相をとかざれば 無称光佛となづけたり 因光成仏のひかりをば 諸佛の嘆ずるところなり」と詠まれいます。
「阿弥陀佛の不思議な光明の姿は凡夫の思考を超えており説明することができない。だから無称光佛と名付けるのです。 衆生を佛と成らせるその如来の光明は、諸佛もほめたたえるところである。」
そして、第十二の「超日月光」については
「光明日月に勝過して 超日月光となづけたり 釈迦嘆じてなをつきず 無等等を帰命せよ」と詠まれ、
「光明がこの世の日月の光を超えて勝れており、衆生の心の底まで光を届けて下さる。だから超日月光と申し上げるのです。 阿弥陀仏の光明の不思議なることを、お釈迦様がほめたたえても説き尽くすことができない。この比類ない阿弥陀仏におまかせしなさい。」と、 おっしゃられています。

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