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求道庵通信(第184号)
★ 三法印は@諸行無常印 A諸法無我印 B涅槃寂静印をいい、四法印の一切皆苦印を@の諸行無常印に含めて解釈したものです。
四法印は@諸行無常印 A諸法無我印 B一切皆苦印 C涅槃寂静印をいいます。
仏教にも多くのいろいろな宗旨がありますが、それが仏教といわれる上には釈尊の覚りの内容から流れ出たものでなくてはなりません。
「法印」は、覚りの内容の根本的な原理を、三種または四種の一定の句形にまとめたものです。
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求道庵通信(第185号)
★ 「諸行無常」という言葉を御存じの方は多いのですが、その意味を理解するとき、
自分を脇に置いて考える人が多いようです。
科学的に考える場合においては、物質が時間の経過とともに変化するということで、それでもよいでしょうが、
仏教で考える場合は、自分を外してはあり得ません。
自分自身が変化し、移り変わっていくものとして在るのです。
ところが、私たちは自分自身が無常の存在であるという事実に対して、そのままを受け入れることができずに、
変わらないものを求め、それに囚われて、変化していくことを受け入れられず、より深い苦悩の中に自らを落とし込めています。
たとえば、「自分の病気を治してくれない。お医者はヤブだ。」と言って、過度に何軒もの病院を巡る人がいますが、自分自身が
無常の存在ということを忘れ過ぎているのではないでしょうか。
生まれたものは、老・病・死という変化の苦悩からは決して逃れられないのです。
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求道庵通信(第186号)
★ 全ての存在は我が無い。とはいわれても、この私という我の思いが有るのに、
その我が無いとはとても思えない。そういう方も多いでしょう。
「われ思う、ゆえにわれあり」と表現したデカルトのように、一つの独立した実体としての
自我を認める思想もあります。
しかし、仏教では、全てのものは縁によって存在するのであり、何一つ単独で存在するものはないと説きます。
「我」もそうであり、私と思っていることも、実は因縁によって仮に和合して存在する我であって、固定的にあるものでは
ありません。
したがって、その「我」といわれるものも、その因縁が解けたなら、自ずと解体されるものとしてあるのです。
ですから、仏教では一般に我といわれるものを「仮我」として表現します。
「仮我」とは「五蘊仮和合我」の略で、五蘊という色(肉体)・受(感受作用)・想(概念)・行(意志)・識(認識作用)が
因縁によって、仮に和合して成立しているだけなのです。
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求道庵通信(第187号)
★ ことに現代人は、若さと健康を追い求める傾向が強くなって来ているように思えます。
いつまでも若々しく健康に生きたいと思うことは、すべての人間の要求ではありましょう。
しかし、それは加齢とともに変化し失われていくものです。
それを分かってはいるつもりでも、変わらない若さと健康を追い求めて、それに執着して、かえって精神的に追い詰められ
苦悩している人もいます。
また、物質面から見ても同様に、お金や物の虜となって、それを失いたくがないために苦悩している人もいます。
我欲によって事物に執着し、消えゆくものを追い求め、苦悩し続ける私の姿が「一切皆苦印」によって示されます。
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求道庵通信(第188号)
★ ことに現代人は、若さと健康を追い求める傾向が強くなって来ているように思えます。
いつまでも若々しく健康に生きたいと思うことは、すべての人間の要求ではありましょう。
しかし、それは加齢とともに変化し失われていくものです。
それを分かってはいるつもりでも、変わらない若さと健康を追い求めて、それに執着して、かえって精神的に追い詰められ
苦悩している人もいます。
また、物質面から見ても同様に、お金や物の虜となって、それを失いたくがないために苦悩している人もいます。
我欲によって事物に執着し、消えゆくものを追い求め、苦悩し続ける私の姿が「一切皆苦印」によって示されます。
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求道庵通信(第189号)
★本来、私たちの存在は無常であり無我です。
ところがそれに気付かず、また知ることもなく変わらないものと思い違いをして生き、どうしてこうなったのかと変化を嘆き
苦悩する生活もあります。
また、たとえ無常であること、無我であることを知りながらも、それから逃れよう避けようとして、かえって常住を追い求め
苦悩する生活もあります。
これらの苦悩の元は、いずれも煩悩によるものです。
その苦悩の元である煩悩を断じて、一切の事象に囚われない、完全に解放された絶対自由の境地が悟りであり、この悟りの境地を
示すものが「涅槃寂静印」です。
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求道庵通信(第190号)
★ 私たちは、普段の生活の中で、「罪」の意識を持つことは、ほとんど無いと思います。
それどころか、自分は罪を犯さない善良なる者であり、法律や道徳に背いた行為を働いた者に対しては、
罪を犯した者として非難をすることも多いものです。
これは、社会的なルールだけを考えたならば、その通りです。
しかし、仏教では実際の行為だけをもって罪をいうのではありません。心で思うことも対象になります。
自分自身の心の中をすべてさらけ出したならば、いったい何が現れてくるでしょう。
はたして、その現れたものを他人に見せることができるでしょうか?
普段に生きる私たちは、悟りとは正反対の方向に進み、自らの欲望をかなえるために、罪を犯し続けているのではないでしょうか。
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求道庵通信(第191号)
★ 「罪」は、悟りに背く行為であり、悟りの妨げとなる行為をいいますが、その「罪」自体は、もともと衆生が背負っているものでは
ありません。
「罪」は垢のように心にまとわり付いていおり、それに気付かず生活をしているのが、私たちの姿なのです。
ですから、私たちの行動は、皆悟りに背く行為といってもよいでしょう。
その姿に気付き、自らの力で罪を滅して悟り開く道が聖道の道であり、その姿に気付かされながらも、自らの力で罪を滅することの出来ない凡夫が
本願によって罪を滅されゆく道が往生浄土の道です。
親鸞聖人が、『正像末和讃』に「無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ」と詠まれています。
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求道庵通信(第192号)
★ 生きるのによく「四苦八苦しています」と言う場合があります。
「四苦八苦」は人間として生きる上に逃れることの出来ない苦悩をいいます。
「四苦」は生苦・老苦・病苦・死苦であり、これに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦を合わせて八苦とし、
これをまとめて「四苦八苦」といいます。
これらの苦悩の大元が、正しい真理を知らずに、真理に背く罪業によるものなのですが、正しい真理を知ることの出来ない私たちには、
罪の意識さえもなかなか出てきません。
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求道庵通信(第193号)
★ 自らの罪業の報いとしての「四苦八苦」ですが、その原因が煩悩であり、その根源が「三毒」です。
この「三毒」によって真理に背く罪業を為さしめられ、その報いを受けることによって苦悩しているのが、私たちの偽らざる姿です。
凡夫にとっては、この「三毒」を自らの力で滅することはできませんが、「三毒」によって苦悩していることを知らされ、知ることはできます。
そうして、この「三毒」によって苦悩していることを、知らないで生きるのと、知らされて生きるのとでは、その人の人生も大きく異なってくるはずです。
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求道庵通信(第194号)
★ 私たちは貪り尽くす生活を送っています。
口では「生活できるほどのお金があれば十分です。」と言いますが、本当でしょうか?
贅沢な暮らしが出来ていても、「お金が余って余って」と言う人はいませんね。
有っても有っても足りないのがお金ではありませんか?
そうして、少しでも人より多くのものを手に入れようと画策し、できなかった場合は腹を立てる。困ったものです。
その腹立ちも困ったもので、一度腹を立てて怒るとその怒りは決して忘れることなく心の底に刻まれて、何かが起こるたびに思い出し、
とっくに怒りの元は消えて無くなっているのに、「そういえば、あいつはあの時、あんなことをしおった!」と怒りを増幅させることもあります。
また、有ることの難いことが道理であるのに、それを有って当たり前と思い込んで、無いと不平不満ばかりを言っては、周りを困らせる。
本来は「自利利他」の生き方をしなければならないものを、「自害害他」という、悟りとは正反対の生き方しか出来ないのが、
偽らざる凡夫の姿です。
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求道庵通信(第195号)
★ 正義をいくら振りかざしても、他者を苦悩に陥れるものは正義とは言えません。
ところが、私たちは自分を中心として、自身に関係のある者の幸せが正義であると思い違いしてるのでしょう。
そのことに気付くことなく、正義のもとに、どれだけの人々が苦悩の人生を送らざるを得ない状況に置かれていることでしょうか。
「アラブの春」以後の中東の姿も、各人の正義のもとに、隠された「三毒」によって、自害害他を繰り返しているように思えます。
それは、家庭内においても、また、国家間の関係においても大小の差こそあれ同様です。
仏に成る道を歩む者として、「三毒」にまみれ、悟りに背く行為である「罪」を犯してしか生きるることの出来ない凡夫であるという自覚の上に、
互いに「お恥ずかしい者同士」と接し合うことが、人間同士の幸せに生かされる道といえるでしょう。
何か事が起こって迷惑を受けて謝罪されたときに、「罪」を犯してしか生きられない者同士が、心から「お互い様ですね。」と言える生き方であったならば、
世の中がどれほど明るくなることでしょうか。
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