求道庵通信 平成23年 (第160号〜第171号 )

第160号/第161号/第162号/ 第163号/第164号/第165号/ 第166号/第167号/第168号/ 第169号/第170号/第171号/ 一覧表へ

求道庵通信(第160号)


自らの力で悟り開き生死の解決をしなければならない場にあって、 誰にも相談することが出来ずに深い苦悶と焦燥のはてに、救世観音の化身として 仰がれていた聖徳太子に指示をゆだねられるしかなかったのでしょう。
この出来事は、親鸞聖人の奥様であられる恵信尼公のお手紙(『恵信尼文書』)によって 明らかです。
「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、九十五日の あか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ、やがてその あか月出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんとたづねまゐらせて、 法然上人にあひまゐらせて・・・」 と、あります。
六角堂は京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町にある天台宗の寺院で、聖徳太子の 創建と伝えられいる。正式な寺号は頂法寺であり、池ノ坊流の華道を伝えている。

↑Top/home



求道庵通信(第161号)


法然上人は岡山県美作のご出身で、15歳で比叡山に登られて、 たちまちに「智慧第一の法然坊」と名声を得られたほどのお方でした。
それでも悟りの道は得られず、山を下りられて仏教各宗の教義を求めて研鑽されましたが、 やはり、納得のいく教えに遇うことが出来ませんでした。
その後、比叡山に帰られて43歳のとき、善導大師の『観経疏』の言葉にふれられて、 翻然として「念仏の教え」に入られたのです。
法然上人がふれられた言葉の内容は、「ただ念仏するだけで浄土に生まれさせて頂き 救われる。それが阿弥陀仏の願いに順じることなのです。」(意訳)というものです。

↑Top/home



求道庵通信(第162号)


私たちの命は当たり前にあるものでしょうか。
本当は、いつ死んでも不思議のない命であって、今この命の在ることのほうが 不思議なことではないでしょうか。
在ることが不思議な命を生かされているのでしょう。
このことに気付けたなら、不平不満の人生から、感謝と喜びの人生に変わることでしょう。

↑Top/home



求道庵通信(第163号)


大変な災害が起こってしまいました。余りに東北の被害が大きいために 報道はほとんどされませんが、北海道でも多くの船や車が津波によって流され、また家屋が 浸水するなどして、大きな被害となっています。
その中、ある被災された方が、「今までの普通の生活が、どれ程有難いものかを知りました。」 とお話されていました。
私たちの生活を思うとき、有って当たり前の生活であり、感謝のない生活になっている ように感じます。
しかし、私たちは、本来有り得ない感謝すべき生活を送っているのではないでしょうか。
「有難い」は「有ることが難しい、めったにない」という意味です。そういう生活を、私たちは しているのですね。
でも、そこに気付かされた人なら、どんなに辛い中にあっても、感謝の中を力強く生き抜いて 行かれると思います。
大変な災害ですが、日本人一人一人が支えあい、出来ることをしていけば、必ず日本は 立ち直ると思います。本当に「頑張れ日本」。

↑Top/home




求道庵通信(第164号)

私たちの命は、決してあって当たり前の命では在りません。
親鸞聖人の晩年(88歳のころ)に、全国的な大飢饉が起こると同時に悪疫が流行して、 はなはだ多くの人々が亡くなられたようです。
聖人は、関東のお弟子の一人に、その惨たんたる様子も含めてお返事のお手紙を 送られています。
そのお手紙に、「去年今年と、老少男女の多くの人々が亡くなられて本当に哀れな ことであります。
しかし、人の命の無常であることは、とっくにお釈迦様の説かれていることですから 決して驚くことではありません。
私の身においては、どのような臨終を迎えても一向に問題にしません。
なぜなら、信心を頂いた人はどのような死に方であっても、お浄土に生まれて、仏に 成らせていただくのです。ですから、終わりはこの上ないめでたいことになるからです。」 (意訳)と、お述べになられています。
管理人も4月に母を急に亡くし、この思いを新たにさせられました。

↑Top/home



求道庵通信(第165号)


「死ぬ命」を生きているということは、全てに支えられて 生かされていることです。
このことに気付かされたなら、今ある命を喜ぶとともに、この私の命を支えてくれるもの 全てに感謝せずにはおられません。
そうして、今度はこの私のできる限りにおいて、社会にお返しをしようという生活が 現れてきます。
これが、「念仏申す人生」といわれるものです。
念仏申す人生を歩ませて頂きながら、力なく娑婆の縁の尽きるとき、浄土に生まれさせて頂き、 今度は阿弥陀仏と同じ、衆生に念仏申す人生を歩ませる働きと成らせて頂くのです。

↑Top/home



求道庵通信(第166号)


よく浄土と阿弥陀仏のお話をさせて頂くと、浄土と阿弥陀仏を それぞれ個別のものと考えて理解される方がほとんどです。
それは、浄土は自分の心で思う理想郷であり、そして理想郷に阿弥陀仏という仏様が いらっしゃるという風に考えているのです。
その理想郷とは自分の思い通りになる世界であり、阿弥陀仏はその思いを手助けしてくれる 仏様ということです。
しかし、これでは今私たちが生きてる娑婆世界とたいして変わらない世界となってしまいます。
親鸞聖人の浄土観はこういうものではなく、浄土そのものが衆生救済の働きを持つ 活動体であり、その働きが阿弥陀仏という仏であり、その働きが私たちにも分かる姿をもって 現れたものが「南無阿弥陀仏」という念仏であるということです。
親鸞聖人は、それまで考えられていた浄土と仏の関係を転換されて、本当の浄土の姿を 明らかにされた方でもあります。

↑Top/home



求道庵通信(第167号)


法然門下のある事件というのは、当時の天皇の寵愛する女官を、 天皇が不在中に出家させてしまったことによって、天皇の怒りをかってしまったことです。
それまでも延暦寺や興福寺などの旧仏教界から、法然上人の「念仏の教え」に対して 批判が出されて、念仏の停止を訴えられていましたが、この事件によって決定的になり、 承元元年(西暦1207年)念仏停止令が出され、法然上人をはじめとして、門下の十人が 処罰を受けたのでした。
これを「承元の法難」と呼んでいます。
しかし、この流罪によって、親鸞聖人の頂いた「念仏の教え」が広められ、現在の真宗教団が 成立してきたのです。

↑Top/home



求道庵通信(第168号)


法然上人は藤井元彦、親鸞聖人は藤井善信という姓名を与えられ 還俗させられて、流罪となったのです。
流罪先は、法然上人は土佐、親鸞聖人は越後です。この別れが、聖人にとっては、 法然上人との、今生の別れとなりました。
還俗させられたからといって、俗ではない。また、還俗によって僧でもない。これをもって 聖人は非僧非俗(僧に非ず、俗に非ず)と宣言されたのでした。

↑Top/home



求道庵通信(第169号)


親鸞聖人が赦免後、故郷の京都に戻られなかったのは、赦免の 二ヶ月後に師である法然上人が亡くなられたことが挙げられるかもしれません。
浄土宗知恩院様では、法然上人800年大遠忌の御法要がこの10月を中心に 勤められます。
親鸞聖人の教化の内容は、法然上人直伝の教えであり、そこには新しい宗派を起こす お考えはありませんでした。
親鸞聖人の関東での門弟の名前が書かれているものに『門侶交名牒』があります。その最初 (親鸞聖人の前)に法然聖人(真宗では本来は「上人」ではない)のお名前が記されています。
しかし、親鸞聖人に直に接し、直に教えを受けた関東の門弟にとっては、師は親鸞聖人で あり、ここから浄土真宗が成立していったのでした。

↑Top/home



求道庵通信(第170号)


親鸞聖人が京都に帰られたのは、62歳から63歳の頃で あったようです。
帰られた理由は、主著『教行信証』の正確さをより期すために、資料を求めてのこととも 言われています。
『教行信証』は、正確には『顕浄土真実教行証文類』といいます。
この『教行信証』は「漢文」で書かれており、法然上人の示された本願念仏の教えを 体系的に開顕して明らかにした書です。
著述の理由は、法然上人の教えを非難し異義を唱える僧侶らに、その非難、異義を正式に 批判することと、京都の法然教団内にあった法然上人の教えから外れていく同輩に対して、 法然上人の真意を明らかにすることです。
「漢文」の書に対して、「和語」は当時の話し言葉のことで、一般庶民にも理解できる言葉で 本願念仏の教えを著して、真宗の教えを分かりやすく示したものです。
「自信教人信」というのは、善導大師の『往生礼讃』にある言葉で、自ら他力往生の教義を 信じると同時に、他者にもこれを教えて信ぜしむることです。

↑Top/home



求道庵通信(第171号)


親鸞聖人の関東門弟に送られた書状は、年齢を確認できるもの としては、88歳の署名の有るものが最終ですが、その後に送られたと認められるものも 数通存在しています。
お亡くなりになる直前まで、本願の正しい教えを明らかにされ、伝えようとされた御一生 でした。
聖人の最初の墓所は、「鳥辺野の北のほとり大谷にこれ(遺骨)を納め畢りぬ」 (『御伝鈔下』第7段) とあります。
この後、「同じ麓よりなほ西、吉水の北の辺」(同上)に遺骨が移されましたが、ここは 現在の崇泰院のある場所で、境内の奥に今でも石塔が残っています。
聖人が御往生されて、750回忌となる今年、新聞等でも採り上げられ、多くの展示等が 為されていますが、美術品として見るだけではなく、法然上人・親鸞聖人の明らかにされた 凡夫救済の教えを、私たち一人ひとりが頂いていくことが大切なことと思います。

↑Top/home