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求道庵通信(第148号)
★ 「悪人正機」の「悪人」とは、悪を一生作ってしか生きられない者であり、
「正機」とは、正しくその教えを聞き入れる対象としてある者をいいます。
この「悪人正機」に対する言葉として、「善人傍機」があります。
「善人傍機」の「善人」とは善を為して生きる者ですが、「傍機」は傍らに置かれたる者であり、
この善人が傍らとされるのが、「悪人正機」の大きな特徴です。
しかし、この「悪人」と「善人」の解釈の仕方によって、「悪人正機」の意味が大きく
異なってしまいます。
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求道庵通信(第149号)
★ 私たちが「悪人」を考えるとき、それは犯罪を犯した人であり、
道徳を守らない者であり、そのほかに社会の秩序を乱す者を思うのではないでしょうか。
そして、そこには自分を善人として、自身の本当の姿を知らないで、他人をいう言葉として、
「悪人」があるのではないですか?
実はその「悪人」は、決して他者のことではなかった。自身のことを棚に上げて、
自身は罪を犯すことのない善人と思い込み、自身の行いを反省することもなく、
他者を非難し、他者を苦しめ、気付かないうちに罪を作って生きるしかない
私自身のことなのです。
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求道庵通信(第150号)
★ 「悪人正機」が説かれる有名な書物のひとつに『歎異鈔』があります。
この『歎異鈔』は、親鸞聖人の門弟であられた、河和田の唯円房という方が書かれたと
いわれています。
聖人が生前おっしゃられていたお言葉を、後に書きとめられたお書物です。
その第3章に述べられる内容を、「悪人正機」説といいますが、この章に、悪人・善人で
まったく意味の異なる文章が出てきます。それが、通信に載せた文章です。
親鸞聖人のおっしゃる善人・悪人と、世間一般の人のいう善人・悪人を混同してしまうと、
この文章はまったく理解できないものとなります。
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求道庵通信(第151号)
★ 悪人正機説のなかで、親鸞聖人がおっしゃられる「善人」は
「自力作善の人」を指します。
「自力作善の人」というのは、仏道を歩むにあたり、自らの力をもって仏教で説かれる善を
行い、自らの力で成仏できる人であり、阿弥陀仏の浄土に生まれて成仏させて頂く
必要のない人です。
それに対して、「悪人」は、自力作善のできない人であり、阿弥陀仏の本願力におまかせして
阿弥陀仏の浄土に生まれさせて頂き、成仏させて頂くしかない人のことです。
ここでいわれる善人・悪人というのは、宗教的な立場でいわれるもので、倫理的、道徳的に
いわれたものではありません。
しかしながら、これを倫理的、道徳的に解釈して、誤った理解をされている方も
おられます。
ですから、この「悪人正機」の説を、聖人は口伝として伝承するだけで、文章としては
残していらっしゃいません。
また、本願寺第八代御門主の蓮如上人も、「無宿善の機においては、左右無く之を
許すべかざるものなり」とお示しになっています。
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求道庵通信(第152号)
★ 仏道を歩む道として、二つの道があるといわれます。
一つには「難行道」という、険しい道を自らの力、自らの足で歩みながら、一歩一歩悟りに
向かう困難な道。
二つには「易行道」という、水路を船に乗って進むように、楽しくやさしく悟りに向かう道です。
「難行道」は、多くの修行を大変長い期間かけて励まなければならず、その厳しさから途中で
堕落する恐れのある道といわれます。
これに対して、「易行道」は仏願力に乗じて、悟りの世界に生まれさせて頂くという、
誰もがやさしく悟りを開くことのできる道です。
「難行道」を進むことのできるお方、また進もうとするお方が「善人」であり、
「難行道」を歩むことができず、ただ阿弥陀仏の本願力におまかせして、悟り開かせて
頂くしかない者が「悪人」です。
ですから、悪人正機説での「善人」・「悪人」は、仏道を歩み、悟りの道を歩む人の上に
いわれているのです。
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求道庵通信(第153号)
★ 『涅槃経』に次のようなお話が説かれています。
「或る親に七人の子供が有りました。親の七人の子供に対する愛情の心は平等であります。
しかし、その子供たちの中に一人病気の子供があれば、その病気の子供に親の心は偏に
重くかけられます。」
これと同じに、如来の慈悲は苦悩のより深いものに向けられます。
ですから、全ての衆生を救うというお心においても、苦悩の衆生に対して、より心を
かけずにはおられないのです。
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求道庵通信(第154号)
★ 親鸞聖人が求められた道は、全ての人が平等に持つ苦悩を解決
する道です。
命在るものは必ず死んでいかなければならない存在であり、これを知り苦悩するのは
人間だけといわれています。
しかし、特に現代人は、余りに生きることばかりに囚われて、自分が死んでゆく存在で
あること、死ぬ人生を生きていることを考えないようにして、生活しているように思えます。
ここで今一度、自分の命とは何か。そしてその命の行き先は何処なのかをじっくりと
考えてみてはいかがでしょうか。
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求道庵通信(第155号)
★ 仏教の教えである悟りを開く、仏に成るというのは、
「死の解決」のことでもあります。
「死」を前にしては、私たちの目の前にある全ての事は、何一つとして皆、
意味の無いものに帰してしまいます。
それまでの幸せ、仕事、財産、家族等々それら全てが、「死」の前には
何の依り処にもならないでしょう。
旧盆の季節です。レジャーも良いですが、御先祖の姿を偲びながら、
自身の命の行き先を今一度考えてみては如何ですか。
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求道庵通信(第156号)
★ この聖人の詠まれたといわれる歌は、
桜の花を人間の命に譬えられいます。
毎春、桜の花を愛でる私たち日本人ですが、せっかく満開に咲いた花が、
ちょっとした夜の大風で、次の日にはみんな散ってしまっていて残念だと
思う経験を、皆さんも何度となくされているはずです。
私たちの命もそれと同じで、今どれほど元気に生きているようでも、
実はいつ死んでもおかしくない命であることを表したものです。
親鸞聖人は、この人生の無常というものを大変深く考えられるお方でした。
余りに現代人は生きることに執着しすぎて、死ぬことを忘れているように思えます。
この際、私は死んでいくものと、腹をくくってみては如何ですか。そうすれば、真剣に
自身の命の行き先を求めるようになるでしょう。
また、死んでいく命と頂いたなら、より一層、尊い命を生かされていることにも気付かされる
ことでしょう。
そうなると、今まで大問題と思っていた他の問題が、実は大した問題ではなかったと
思えるようになるかもしれません。
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求道庵通信(第157号)
★ 門跡寺院というのは、その寺院の住職になることのできるものは、
皇族もしくは、摂政家の子弟に限られていた寺院のことです。
慈圓和尚も、当時の摂政・関白であった九条兼実公の実弟です。
法然上人門家が延暦寺、興福寺に抑圧されたとき、九条兼実公、慈圓和尚が共に
法然上人、親鸞聖人を庇護してくれています。
親鸞聖人はその慈圓和尚の元で得度されて、比叡山に登られたのです。
比叡山に修行のため登る者は、最低でも12年間、山から下りることは許されません。
その間、真剣に生死の迷いの解決を求める修行者は、とても厳しい命がけの修行を
続けるのです。
親鸞聖人も、そのような修行者・求道者のお一人でした。
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求道庵通信(第158号)
★ 「生死いづべき道」を求めるということは、煩悩を滅することによって、
生死一如の悟りの境地を開くことです。
しかし、自らの力で煩悩を滅するということは、生易しいものではありません。
現実に、この娑婆世界で悟りを開かれた方は、仏教を開かれた釈尊だけです。
このような中で、悟り開くために厳しい修行に打ち込み、煩悩を滅しようとされる行者は、
それだけ真剣に覚悟を決めて「生死いづべき道」を求められている方々なのです。
親鸞聖人もその中のお一人でありましたが、その修行を行するなかで、自らの煩悩の本当の
大きさに気付かれた方でもありました。
聖人は『一念多念證文』の中で、「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念に
いたるまでとどまらず、きえず、たえず。」とお述べになっています。
「身にみちみちて」ということは、私たちの煩悩は、自分の身からあふれ出て、どれほどの
大きさかも分からないものということですね。
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求道庵通信(第159号)
★ 期待を胸に「生死の解決」を求めて比叡山に登り、人生の一番
大切な時期を厳しい修行の身に置かれて努力された親鸞聖人にとって、煩悩を何一つ
滅することの出来ない身と知らされたときの絶望感は、察して余りあるものがあります。
そして、ここまでやってきたのだから、もう少し頑張れば、どうにかなるかもしれないと
ズルズルと自分を誤魔化してやっていくことも可能なのです。
しかし、それを聖人は許されなかったのです。
この聖人ご自身の態度への厳しさを教えられるたびに、自分の誤魔化し生きる
いい加減な生活態度が、とても恥ずかしいことと知らされます。
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