求道庵通信 平成21年 (第136号〜第147号)

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求道庵通信(第136号)


「自然」という言葉を最初に重要視したのは老子と思われます。
『老子』の中に主張される「無為自然」の「道」としてあらわされており、老子の説く 「無為自然の道」とは万物の存在の根源をなすものとして主張されています。
そこには、「道は無為にして為さざるなし」「道は自然に法る」とあります。
この場合の「自然」は、「おのずからしかり」という意味であり、仏教にも強く影響を与えています。

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求道庵通信(第137号)


「自然」を“シゼン”と読むとき、その意味は人間の行為が入っていない状態をいう 場合が多いと思います。自然保護という場合の自然はこれに該当します。
人間があまりにも手を加えすぎ、人間自らが、生活出来ない環境まで作り出していることもよくあります。
それに対して、仏教での“ジネン”は人間の行為が入ってない状態だけをいうのではなく、 真実の姿そのままのことであり、真理をいいます。
ところで、人が為すことを人為といいますが、「人偏」に「為」を書いて「偽」とは、よくできた文字だと 思いませんか!
人間の行為にはほとんどが、自己中心的な思いが知らないうちに入ってしまい、公平といいながらも偏って いるものです。つまり「偽り」・・・。

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求道庵通信(第138号)


「自然」に在るということは、私たち人間の計らいに関係なく在ります。
また、「自然」は私たちが求めようと求めまいと在るもの。そして、知っていようが知るまいが在るものです。
その「自然」を私たちは、自身の価値観を以って判断し、区別し、色々と意味付けをしますが、「自然」は そのようなことに関係なく、在る姿をそのまま示しているだけなのです。

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求道庵通信(第139号)


釈尊が体現された悟りは、草叢に覆い隠されて、誰も気付くことの出来なかった 小川を見つけ出されたように、ひとり「自然」の真理を見つけ出された内容の実践です。
「自然」の真理を見つけ出され、それを自覚し体得されて仏陀となられたのですから、釈尊の自覚の内容は 「自然」の真理そのものであり、これを法ともいいます。
古い経典に「法を見るものは我(釈尊)を見る。我を見るものは法を見る。」と説かれていますが、 仏陀とはその「自然」の真理(法)に随って、その「自然」のままを実践される方をいいます。

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求道庵通信(第140号)


「自然」の自覚と実践でよいお話があります。
釈尊があるとき病気になられました。
その姿を見た意地悪な者が、「お釈迦様のような悟りを開かれた方でも、病気になられるのですねぇ。」と 皮肉を釈尊に言ったそうです。
すると、釈尊はその人に、「第一の矢は受けますが、第二の矢は受けません。」とお答えになられました。
☆「第一の矢を受ける」とは、この身がある限りは、病に罹ることからは逃れられぬということ。
☆「第二の矢は受けない」とは、病気になっても、その病で心を悩ますことは決して無いということです。
私たちは、病気になる前から、あんな病気になったら嫌だと悩み、病気に罹ったら、 今度は悪い病気ではないだろうかと悩んでは、いつも心の落ち着くことがありません。
世界的にに流行りだした、豚インフルエンザに対する思いも同じですね。罹る前から悩み、 罹ったら死ぬのではないかと悩み、いつも心休まりません。

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求道庵通信(第141号)


親鸞聖人は『自然法爾章』の中に、「弥陀佛は自然のやうをしらせんれうなり」と おっしゃられています。
「阿弥陀仏」という仏様は、私たちを必ず救う(浄土に生まれさせ悟り開かせずにはおかない=生死の迷いを解決させる)という、 真理の動的な働き(自然の働きであり、法そのものの働き)を、私たちに知らせるための資料であるのだ。 ということです。
たとえば、勉強で何かを知ろうしても、資料がなければ知りようがありませんね。
真理である悟りの姿・働きを何一つ知ることのできない私たちですから、知ることのできる手だてが なければ、全く知りようのない私たちです。
その真理の姿・働きを、私たちに知らせるための手だてとして現れた仏様が、「阿弥陀仏」なのです。
しかし、ただ私たちに知らせる資料ということではなく、「阿弥陀仏」は資料のまま、救済の働きそのものでも あります。
なお、『自然法爾章』は、京都に帰られた親鸞聖人を、御弟子であられた顕智上人 (高田派専修寺第三世)が関東から訪ねられて信心の要を伺い、親鸞聖人がお答えになられたことを 書き写されたものです。

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求道庵通信(第142号)


仏教各宗において信仰される「阿弥陀仏」は、大乗経典の中に於いて、 三分の一余りに説かれているようです。
大乗仏教運動の過程から、東西南北の四方に四仏が立てられ、その西方の仏が「阿弥陀仏」です。
その運動の中から四仏の諸経典が生まれましたが、特に「阿弥陀仏」の経典群が格別に浄土経典として 尊重されて、その経典群の中「浄土三部経」が中国・日本において、深い尊敬と帰依を受けるように なりました。
◎大乗仏教 : 広く衆生を救済する、大きな乗り物(大乗)のような仏教ということ
◎浄土三部経 : 『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三巻をいいます

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求道庵通信(第143号)


「阿弥陀仏」のお呼び名は色々あって、「無量寿仏」の他にも「無碍光仏」、 「不可思議光仏」等々があります。
どれも「阿弥陀仏」の特徴・働きから、このようにお呼びされます。
「阿弥陀仏」のお名前が題名になっている「浄土三部経」の内容を大変簡単に述べるなら、
『無量寿経』は、阿弥陀仏がどのような理由で成仏されたのか、私たち衆生がなぜ往生出来るのかが説かれています。
『観無量寿経』は、阿弥陀仏の浄土と阿弥陀仏の姿を観たてまつる方法と善い行いについて説かれています。
『阿弥陀経』は、阿弥陀仏の浄土の姿、念仏、諸仏の阿弥陀仏への称賛が説かれています。

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求道庵通信(第144号)


「阿弥陀仏」の「阿弥陀」は、言語としてサンスクリット語のアミーターバ・アミタユスの 「アミタ」を音写したものです。
その言語である「アミタ」は、「ア」は否定を表し、「ミタ」は量るを意味します。
そこで、「アミタ」は、「量られない、無限」の意味となります。
この「アミタ」に、「光」の意味である「アーバ」と、「年齢」の意味である「アユス」が加わって、「アミターバ」・ 「アミタユス」の二語となったのです。

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求道庵通信(第145号)


太陽や電灯の光である色光は、何か遮断物があると遮られ、その光は届かなく なります。
たとえば、コンクリートに囲まれた窓ひとつ無い部屋の中には、どれほどの強い光であってもコンクリートを 突き抜けてその光が届くことはありません。どこまでも真っ暗闇です。
しかし、「阿弥陀仏」の無量の光明は、どのような遮断物があっても、それに妨げられることなくどこにでも 届いている光として表されます。
これは、「阿弥陀仏」はどこにでもいらっしゃる仏様であることを、無量の光明を以って示しているのです。

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求道庵通信(第146号)


永遠の命を得ると聞くと、普通には、この身のまま、いつまでも死なない命を得る ことと理解するのではないでしょうか。
確かに、私たちが古来より追い求める「永遠の命を得る」という思いは、そういうものでしょう。
しかし、永遠の命の体現者である「阿弥陀仏」の無量の寿命は、そのような個々に永遠の命を得ることをいうのではありません。
「阿弥陀仏」は過去・現在・未来を通して在られない時の無い仏様であることを、無量の寿命を以って 示しているのです。

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求道庵通信(第147号)


現代人は、何でも頭で理解し捉えられるものであると、科学的に考えます。
しかし、本来の仏の在りようは、私たちにはどうあっても頭で考えられるような、そして心で捉えられる ような姿ではありません。
仏の大きさは宇宙を覆い尽くす大きさと申し上げてよいでしょう。これは私たちの思考の範囲を 超えるものです。
また、命の在りようも、始めの無い過去から終わりの無い未来までですから、これも思考の範囲を 超えます。

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