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求道庵通信(第112号)
★ 「仏教」という言葉は近年になって使われ始めたもので、
それまでは仏法・仏道という表現が主になされていました。
仏の教えを学ぶということは、そのまま法を実践していく道に他ならないからです。
ですから、頭で理解して知っていればよいというものでは、決してないのです。
つまり、「この私」をはずして、仏教は仏教として成り得ないものです。
仏教徒とは教えに従い、法を依りどころとして、仏道を歩む者を指します。
その歩みの目標はもちろん仏に成ることにありますが、それは先ず第一に、自分とは如何なるものかを知ることから始まります。
自分の力で生きているように思っている私たちですが、あらゆるものの支え無しに今この私は在り得ない。
しかもこれは、ただ、皆に支えられているという薄っぺらなものではなく、宇宙全体といってよいかもしれませんが、
ありとあらゆるものによって支えられ存在している私と気付かされることです。
これが「縁起」ということなのです。
しかしながら、最近の世相をみると、「縁起」ということを全く無視して生きている人たちが益々増えてきたように感じます。
例えば、どんなにお金を払っても、お金を払った代価をしてくれる方が無ければ、
それを手に入れることができないことにすら気付いていない。
パン一つにしても、パンを売る方、パンを作る方、原材料を育て作ってくださる方、運んでくださる方、自然の恵み
等々、一つでも欠けたならば、手には入りません。
だからこそ「有難う」「お蔭様」「頂きます」といった、感謝の気持ちをを忘れずに新年からいきたいものです。
お金を払っても「有難う」です。
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求道庵通信(第113号)
★ 普通に考えると、自分は間違いなく存在するものであり、他とは違うものです。
そして、意識するしないにかかわらず、自他を分け、自身の思考を中心として、物事、社会を見ていきます。
この自他を分け隔てするところから、区別が生まれ、差別が現れ、敵や味方を作り出して行きます。
こういう考え方を、相対の世界であるとか分別の世界といいます。
このような自己を中心とした考えに対して、この私とはありとあらゆるものの縁によって現れ存在しているものある。
全てに生かされている私であった。
宇宙全体が私であり、私が宇宙全体である。しかも、それ自体が私という「我」を離れた世界であり、
本来は自も他も無い存在であると自覚するところに、本当の自分が知らされる。
こう知らされることを、「本来の自身の在り方を学ぶ」といえるでしょう。
しかしながら、このように自己をなくしたところに全てが自己そのものであると頂けないところに、「凡夫」の悲しさがあります。
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求道庵通信(第114号)
★ 仏教の根本原理を「法印」といいます。これが説かれるか説かれないかで、
仏教か非仏教かが知れます。
「法印」というのは、仏教の特色である無常・苦・無我という教えが一定の句形でまとめられたもので、
三法印もしくは四法印で示されます。
三法印は
1.諸行無常印
2.諸法無我印
3.涅槃寂静印
の三つをいいます。
また四法印は
1.諸行無常印
2.諸法無我印
3.一切皆苦印
4.涅槃寂静印
の四つのことです。
すべては無常であり、苦であり、無我であることをあらわしたものです。
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求道庵通信(第115号)
★ 私たちは楽しみを求め、日々暮らしている場合が多いと思います。
できることなら苦しみは避けて、楽しく日々を送りたい。
そのてために、毎日頑張って働いているのではないでしょうか。
しかし、せっかく苦しみを乗り越えて、やっと楽しみを手に入れたのに、
間も無く次の楽しみを追い求め始めるということはありませんか?
楽しみは苦の始まり。荷物を肩に背負って坂道を登っていくようなものです。
最初は楽でもだんだんと進むうちに苦しくなってくる。そして、我慢できずに反対の肩に背負いなおすと
アー楽だ!と思っても暫らく進むとまた苦しくなる。そしてまた反対の背に替えて、アー楽だ!
しかし、これもほんのひと時似すぎず、また苦しくなる。これが私たちの人生の有り様でしょう。
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求道庵通信(第116号)
★ 私の内から、こう在りたい、ああしたい等々の思いが、各人夫々に現れてきます。
しかし、現実的には、その思いが完全に叶うということはまずありえないものです。
思い通りにならないものを、思い通りにしようとして苦しみ続けて生きるのが私たちの姿です。
自由にしてもそうでしょう。自由に生きるとは、心のまま、思いのままに生きるということですが、
本当に自由に在れる私たちでしょうか?
本当は不自由な中に生まれ、不自由な中に死んで行くしかない私たちなのです。
決して思い通りにはならないのが、私たちの人生です。
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求道庵通信(第117号)
★ 仏教の目的は悟りを開くことにありますが、その悟りを開くにも、
今の自分の本当の姿を知ることができないならば、悟りの道を求めようとはしないでしょう。
自身の幸福だけを追い求めることは、実は苦悩し続けることであり、他者を傷つけ、
自身も傷ついていく破滅の道を進むことなのです。
しかし、私たちはその姿に自分自身では、なかなか気付くことができません。
その私たちに、本当の姿を教え気付かせ、真に進む道を教えてくれるのが仏教がです。
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求道庵通信(第118号)
★ 仏教を開かれた釈尊が、最初に説かれた内容を具体的に示したものが、「四諦」です。
「諦」は今日では、断念する、放棄するという意味で使われる場合が多いですが、本来の意味は
明らかにする、真理、道理ということです。
「四諦」とは四つの真理ということであり、喩えるなら医師が患者の病を完全に治療する過程といっても
良いと思います。
初期経典のひとつである『雑阿含経』に名医の喩えが有ります。
名医とは「よく病を知り、よく病の源を知り、よく病を知って退治し、よく治病を知って更に動発させない」
とあります。
もちろん名医は釈尊(釈尊の説かれた教説)であり、病人は私たち苦悩の衆生です。
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求道庵通信(第119号)
★ 私たちは幸福を願い、幸せな人生を送ろうと、
日々暮らしているのではないでしょうか。
それぞれの幸福への思いは違っても、各人の思いの中にある幸福感を叶えようとして生きていることに
変わりはないと思います。
言い換えたなら、自分にとって都合のよい人生でありたい、思い通りの人生でありたいと・・・。
しかし、ある程度は都合よくいってると思うときもありますが、全てがそうは行きません。
むしろそれよりも反対に、思うように行かないのが私たちの人生です。
その思い通りに行くはずのない人生を、思い通りに行かせようとするのですから大変です。
まったく不可能なことをしようとするのですから、無理があります。
そこに否応なく、苦悩が生じます。
私の人生はなんでこうなるんだ、思い通りに行かないんだと、社会や他人を恨んでは嘆く人は、
人生の基盤が間違っているのかも知れませんよ。
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求道庵通信(第120号)
★ 「四苦八苦」という苦しみは、私たちが生きていくうえに、
否応なしに、しかも全ての人が平等に持つ苦しみです。
「調子はどうですか?」と聞かれたときに、「四苦八苦してますよ!」と挨拶代わりに使う方もいますね。
生苦、老苦、病苦、死苦はこの字の通りです。ただここでいう「生」(「しょう」と読みます)は、
生きる意味ではなくて、生まれることをいいます。
「愛別離苦」は、どんなに愛する者とも別れていかなければならない苦しみをいいます。
「怨憎会苦」は、顔も見たくない相手とも会わなければならない苦しみのこと。
皆さんの会社の中にいませんか?嫌でも付き合っていかなければ生きられません。
「求不得苦」は、求めても得ることのできない苦しみ。
私は今ギター欲しい欲しい病にかかっていますが、手に入れられず苦しんでいます。
「五蘊盛苦」は、人間が生存すること自体が、苦であるということで、
前の七つの苦を統括する苦といってもよいでしょう。
五蘊とは心身一切を構成する要素を指し、精神的なものと肉体的なものとから成立している
人間の生存自体のことです。
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求道庵通信(第121号)
★ 苦から遠ざかることが、自身の幸福と思い生きる私たちですが、
そもそもが、私たちの人生は苦悩して生きなければならないものです。
四苦八苦して生きるしかない人生を、苦悩無く生きようとするところに、
一層苦が圧し掛かってきます。
この人間の本当の姿を知らずに生きるならば、苦しみもより一層深くなるのではないでしょうか。
「人生は苦である」と知り、その原因を知ることによって、同じ苦しみを受けて生きるにしても、
生き方自体に大きな違いが出てくると思います。
その苦しみの大元が煩悩であるのだ。煩悩によって欲望を求めて生きるしかない私であったと
知らされる所に、新しい生き方も現れると思います。
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求道庵通信(第122号)
★ 私たちは、順調に生活しているときでも、何かしら一抹の不安を感じながら
生きるものではないでしょうか。
この順調な生活がいつまでつづくのか、この健康がいつまで保たれるのか等々・・・。
そうして順調であったはずの人生が一度崩れ出すと、たちどころに不幸のどん底に落ち、
こんなはずではなかったと悩み苦しまなければならなくなります。
順調でも不安を感じ、また何か起こると苦悩する。つまり本当の安らぎは決して得られないのが、
私たちの人生なのです。
本当の安らぎを得られない原因は「煩悩」にあるのだと明らかにして、
本当の安らぎは「煩悩」の無い状態にすることであると仏教はおしえます。
その「煩悩」の無くなった状態を「悟り」であるとか「涅槃」というのです。
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求道庵通信(第123号)
★ 苦悩の人生であり、不安を抱えながら生きるしかない人生の中に、決して真の
平穏は有り得ない。これが私たちの人生の真実の姿です。
しかし、私たちはその苦悩と不安の中に安らぎを求め、裏切られ続ける人生を歩むものとして
あります。
その原因は、自己を中心として自己の利益しか考えられないという、煩悩に支配されるしかない私が
在るからです。
この煩悩に支配された苦悩と不安の人生から、真の安らかな人生を確立する方法として
「八正道」が説かれています。
しかし、煩悩に支配されるしかない凡夫は、どれほど八正道を実践しようとしても、結局は
まね事しかできないものであり、真の安らかな人生を確立することなどできないものです。
この凡夫のために、阿弥陀仏の「本願(救われようのない者だからこそ、必ず救う)」があるのです。
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