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求道庵通信(第100号)
★ 「回向」という言葉にあまりなじみのない方もあると思いますが、仏教では
とても大切な行いのひとつです。
自分自身が積み重ねた善根功徳を、ただ自分自身のものとするのではなく、他者にふりむけ与える。
そして、自他共に悟りに向かわせることです。
一般には「回向」に1.菩提回向、2.衆生回向、3.実際回向の三種が説かれます。
「菩提回向」は自身の善行をもって、自身の悟りにむかわせること、
「衆生回向」は自身が修めて得た功徳を、他者にふりむけ助けること、
「実際回向」は自身の善行を意識もせず、他者への功徳のふりむけも意識せず真理をさとること
です。
自分自身さえ、悟りが開ければよいというのではなく、自他共に悟りの道を歩むということが、
「回向」から知れます。
自分の利益ばかり追求して疲れ果ててる人はいませんか?ん!私のことかな・・・。
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求道庵通信(第101号)
★ 「回向」という言葉から、よく思い出す詩の一節があります。
それは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」です。
「・・・東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ・・・
・・・ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ」
この一節は、他者の幸福のために自身の力をふり向け、人々が救われていくことが、
それがそのまま自身の救いとなる(救われるためのものではない)生き方を示したものと、
私は解釈しています。
幼い頃から仏教に慣れ親しんだ宮沢賢治だからこそ、詠むことのできた詩でしょう。
仏教はただ悟りさえ開けばよいというものではありません。もちろん悟りを目的とはしますが、
仏教の教えには人間としての本当の生き方が示されているのです。
「喜捨」という言葉がありますが、報償を求めない(報われることすら思わない)で、
自分の財産や、自分のできることを、喜びを持って他者に与えていく、施していくことです。
これが本当の生き方なのだ、と仏教は教えてくれます。
本当の生き方に教えられ、比べてみると、自分の生き方のなんとお粗末なことでしょう。
ここから、反省と少しでも本当の生き方に近付きたいという思いも出てくるのではないでしょうか。
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求道庵通信(第102号)
★ 「回向」とは自身の善行によって得た功徳を他者に振り向けることですが、
このような善行をまったく実行することができない凡夫であるという、自己への反省の上に、
ただ法をあおぎ、法の働きを受け取っていく以外に生死の解決ができないものとして、
浄土真宗では「回向」は如来から手回しされ、振り向けられるものとしてあります。
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求道庵通信(第103号)
★ 往生浄土であるとか浄土に生まれると聞くと、何かしら自分で理解のできる
世界があって、そこに行くように考える人が多いように思います。
しかし浄土とは悟りの領域であって、決して私に理解できるような世界ではありません。
浄土に生まれるということは、「自然の働きの中に帰らせていただく」
と頂戴したらよいのではないでしょうか。その自然の働きを如来と申し上げます。
私自身は、その自然の働きを知ることができないままなら、煩悩に苦しめられていることすら
気付かずに、迷いの中に死んでいくしかない存在です。
その私に、迷いの中では終わらせない、必ず浄土に生まれさせ悟りを開かせると
力強く働きかけてくるものが如来の回向です。
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求道庵通信(第104号)
★ 私たちは、生まれたならいずれ死んでいく存在であることを知ってはいますが、
何処から生まれて来たのか、また、何処へ死んで行くのかは分からない。
これを迷いといいます。
しかし、その私たちに、真実の世界から、真実の世界が在ることを『仏説無量寿経』を以って
説き、「南無阿弥陀仏」の名号となって知らせて下さる。
そして、真実の「名号」が私たちを呼び覚まし、真実の世界に必ず生まれさせると、
常に力強く働きかけて下さっている。
その「名号」を素直に受け入れて、念仏申す人生を歩ませて頂き、
真実の世界に生まれさせて頂く。
これ全てが如来から振り向けられ、手回しされるものです。
先月の解説で、「自然の働きの中に帰らせていただく」と書きましたが、「自然の働き」が
真実の世界であり、如来ということです。
真実の世界とは、真実の生き方をさせて頂ける世界でもあります。
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求道庵通信(第105号)
★ 浄土に生まれるということは、真実の世界に生まれるということ。
真実の世界に生まれるということは、真実の生き方のをさせて頂くことです。
私たちはこの身あるうちは、自と他を分け、自分に都合の良いものは大切にしますが、
都合の悪いものは嫌い、排除していく。そうして敵味方をつくり、気付かないうちに
お互いが傷付け合う生き方をするしかないものです。
真実の生き方とは自と他もなく、総てのものの苦悩を知り、総てのものの幸せを願い、
総てのものの苦悩を引き受けて、総てのものが安らかになることが自身の安らぎとなる生き方です。
浄土とはこういう真実の生き方させて頂く世界なのです。
その浄土から真実の世界に生まれさせ、真実の生き方をするものにさせずにはおかないと、
私たちを力強く呼び覚まし働きかけるのが如来(南無阿弥陀仏)です。
その世界に生まれるということは、如来と同じ働きをさせて頂くことです。
浄土に生まれた故人は、娑婆の世界に還り来て、如来と同じ働きをして、
残された私たちに色々な姿をもって、「真実の世界に生まれよ」と常に働きかけているのです。
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求道庵通信(第106号)
★ 一般に使われる「往生」という言葉が、正しい意味を見失わせていますが、
本来「往生」とは、悟りを開き仏に成るために、仏の国である浄土に往き生まれることです。
これが、誤った意味で使われるようになったのは、「往生」が人間という迷いの境界に死んで、
仏の浄土に生まれるということで一般的には理解されているので、「往生」は現実からの
死となることから、「往生」そのものを死と同義に考えるようになったのでしょう。
しかし「往生」は浄土に生まれて悟りを開く、仏に成ることにあります。意味としては、
決して死ぬことではありません。
ですから、死んだからといっても、往生できるとは限りませんよ。
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求道庵通信(第107号)
★ なぜ「往生」しなければならないのか。そして「往生」の目的は何か。
これは悟りを開く、仏に成るためです。
自ら悟りを開くことのできるもの、成仏できるものには、往生も浄土も必要はないでしょう。
しかし、悟りを求めようともせず、我欲のままに生きるしかない私たちにとっては、
「往生」無しに、生死(しょうじ)の迷いを解決する道は無いのです。
そして、往き生まれべき浄土において、悟りを開かせて頂く、仏と成らせて頂くのです。
往き生まれる浄土こそが、我欲を離れた本当に在る世界といえるのではないでしょうか。
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求道庵通信(第108号)
★ 人は生まれたなら、必ず苦しみを抱えながら生きることになります。
老い、病、そして死。他にも、愛するものと別れていかなければならない苦しみ等々、
全ての者が平等に抱える苦悩があります。
これらの苦悩を自ら解決しえない私たちです。
その私たちに、「苦悩の解決された真実の世界である浄土に必ず生まれさせ、
仏にさせずにはおかない。」と誓われたものが「本願」です。
せっかく真実なる仏が誓って下さっているのに、その誓いを素直に受け入れず、
また迷いの世界に生まれることを「迷界流転」といいます。
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求道庵通信(第109号)
★ 「往生」の意味は、ただ死ぬ、臨終する、命終するということではありません。
何処に死んでいくのか、死んでどうなるのか全く分からない私が、阿弥陀仏の本願力によって、
悟りの世界である浄土に生まれ、その命の輝く世界で、本当の生き方のできる者に成ることです。
そして、浄土に生まれることが定まった者は、迷いの中にあっても、その迷いの中に
もう死んでいくことはありません。これは、この迷いの身あるままで往生が定まっていることです。
これを正定聚(しょうじょうじゅ)の位につくといいます。
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求道庵通信(第110号)
★ 仏教の目的は悟りを開くこと、仏に成ることにあります。
悟りを開く、仏に成るとは、本当の安らぎを得ること、、安らかな境地となることで、死ぬことではありません。
本当の安らぎ、安らかな境地というのは、欲望によって起こる苦悩が完全に滅された状態をいいます。
しかも、一時的ではなく、永遠に欲望苦が滅した状態です。
これが到底不可能な私たちであるから、本当の安らぎの世界(浄土)に生まれさせ悟りを開かせずにはおかない、
と誓われたのが、阿弥陀仏の「本願」です。
そして、「本願」に間違いは無いと、この誓いを素直に受け入れ、往生浄土間違いなしと喜ぶ姿を、
「信心」といい、往生が定まった身といいます。
この欲望に苦悩する身体が在るまま、往生浄土が定まるので、身体を失うことなく往生が決まっているということで、
「不体失(身体を失わないままの)往生」ともいいます。
しかし、「往生」とはいっても、欲望にがんじがらめの凡夫に変わりはありません。決してこの身あるままで、
悟りが開かれた、仏に成ったとは思わないで下さい。
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求道庵通信(第111号)
★ 「往生」とは浄土に生まれること。そして、浄土に生まれるということを聞くと、
私たちはどうしても限定的な世界を考えるのが普通です。
こう考えるしかできないのが、私たち凡夫の思考領域なのでしょう。
しかし、浄土は私たちの思い計らいを超えた悟りの領域です。
親鸞聖人は浄土のことを「無量光明土」とおっしゃられ、量ることのできない智慧の領域が悟りの世界、
浄土であると示されます。
その悟りの世界は、常に衆生を浄土に導き救済する活動体です。
その救済の活動体である浄土に生まれるということは、その活動体の中に溶け込まされ、
同じ働きをさせて頂くものに変えられるということです。
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