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求道庵通信(第88号)
★ 私達人間は、他のものが悲しみ苦しんでいるのを見ると、その悲しみ苦しみを、
自らも同じように感じる心を持っています。
何か事件や事故が起きたときに、被害にあった人はどれほど辛いだろうか。また、
その親にしてみたら、どれほど苦しいことであろうかと心を思い寄せ、自らも悲しくなります。
そうして、他のものの苦悩を共有し、その苦悩する他のものを助けたい、救いたいという心が
起こってきます。
他のものを思いやり、なんとかしてあげたいという心を持っていることが、人間の特質でしょう。
この心の有り様と行動を「慈悲」と表現してもよいと思います。
しかしながら、私達の起こす慈悲は完全には達成しえないところが、
また悲しいところではあります。
完全には達成できなくても、この心だけは失くしたくないですね。失くしてしまったら、
それはもうケダモノ以外の何ものでもなくなってしまいます。
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求道庵通信(第89号)
★ 慈悲の「慈」は梵語のマーイトレーヤー(maitreya)、
マーイトリー(maitri)の訳で、本来は友情、友誼を表す言葉ですが、それから衆生をいつくしみ、
衆生に楽を与えるという意味になりました。
私たちは、愛するものに対して、それをいつくしみ、楽を与えたいと思い努力します。
そして、愛するものに楽しみ、喜びを与えることができたら、与えた側もまた嬉しいものです。
例えば、親自身が犠牲になってでも、愛する子供が喜んでくれたならば、親自身も本当に
嬉しいですよね。
これを全ての人々に対して全く平等にしていくことが、本当の「慈」です。
しかしながら、私たちの慈は、自身の都合でなされるだけで、愛するものは大切にしようとしますが、
そうでないものに対しては冷淡ではないでしょうか。
全ての人々に対して、まったく平等にいつくしみの心を起こすということはできないものです。
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求道庵通信(第90号)
★ 慈悲の「悲」は梵語のカルナー(karuna)の訳で、「痛む、悲しむ」という
意味ですが、大元は、「呻き(うめき)」ということです。
自身が苦悩するとき、呻きとなって悲しみが知れる。
自身の悲しみが知れた時に、本当の他者の苦悩が分かる。
そこに他者の苦悩が、そのまま自身の苦悩となることによって他者を憐れみ、その苦悩を
除いてあげたいという思いが出てきます。
この心の働きを「悲」といい、「抜苦」ともいいます。
自分の子供が怪我をして、とても痛がっているとき、親自身も同様に心に痛みを感じるものです。
そして何とかして、その子供の痛みを取り除いてあげたい!と思わずにはいられませんよね。
これを全ての人々に対して全く同じに苦悩を感じ、苦悩を除くことが、本当の「悲」です。
他者の苦悩が深ければ深いほど、自身の苦悩も深くなり、また憐れみの心も深くなります。
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求道庵通信(第91号)
★ 慈悲の「慈」は与楽、「悲」は抜苦のことで、他者の苦悩に同感して、
その苦悩を除き、慈しみの心を持って楽を与える働きをいいます。
この「慈悲」にも仏教では三種の慈悲を説きます。
一つには衆生縁の慈悲、二つには法縁の慈悲、三つには無縁の慈悲といいます。
「衆生縁の慈悲」とは読んで字の如く、衆生を縁として起こす慈悲の心のことですが、
分かりやすく表現するならば、私たち凡夫の起こす慈悲のことです。
このたびも、スマトラ沖で大きな地震が再び起こり、又大勢の方々が亡くなり、
被害に遭いました。
このような事件、事故を見聞きするたびに、私たちはその苦悩に思いを寄せ、
どれほど大変なことであろう、何とか手助けをしてあげたいという心が湧いてきます。
しかし、この思いも、自分の知れる中での、限定的な思いでしかありません。
自身の知らないところ、知らないものに起こっている苦悩には、慈悲の心を
起こしようがありません。
私たちの起こす慈悲はどうしても、自身で知れる中でしか起こせないものです。
このような、区別ある中でしかできない慈悲を「衆生縁の慈悲」、また「凡夫の慈悲」といいます。
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求道庵通信(第92号)
★ 「法縁の慈悲」の法とは私たち自身をも含めて、あらゆる存在・
事象のことであり、また、これらの全てが仮の存在として在るということです。
私たちは、目に見えるあらゆるものが現実に間違いなく存在していると思っています。
しかし、それは縁によって仮に和合して存在するだけであって、現実に変わることなく
どこまでも存在しきれるものではないと、仏教は教えてくれます。
つまり、実体があるように思えるけれども、実は全てが実体のないものであり、
あてにならないものなのです。
これを悟ったならば、もう当てにならないものを誤って追いかけることなどないのですが、
私たちは本当に知ることができない。そして当てにならないものを追い続けては、今度こそ、
今度こそと、どこまでも裏切られ続けて苦悩していくしかないものです。
私たちに見えるものは、全てが仮の存在であると悟った者が、全てが仮の存在と知れずに
苦悩する私たちの姿を知り、これを救おうとする心を、「法縁の慈悲」もしくは「菩薩の慈悲」と
いいます。
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求道庵通信(第93号)
★ 本来、自身の迷いを知り、悟りを求めて修行していくというのが
仏教の姿勢です。
しかし、「縁無き衆生は度し難し」という言葉があるように、本来自身の迷いの姿も知れず、
仏の教えを聞こうとも思わず、悟りに向かおうとも思わず、欲望のおもむくままに進むことが
幸せと思い生きる、仏教の教えに縁の無いものはものは、そのまま迷いの中に
沈むしかないのです。
そして普通ならば、仏縁の無いものは、投げ捨てられるしかありません。
そのようなものでも、その生き方はより深い迷いの中に落ちるだけと教え、そういう迷いの中に
落ちるしかないものをも漏らすことなく、必ず救うというのが、「無縁の慈悲」といえるでしょう。
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求道庵通信(第94号)
★ あるがままにものを見る。そしてあるがままに自然に受け入れる。
そこには何の苦痛も無く、安らぎしかない。これが悟りの智慧というものでしょう。
しかし、まず、あるがままにものを見ることすらできないのが、私たちの姿です。
ものを見るときに、意識する、しないににかかわらず、自分の心を通してものを見てしまう。
「綺麗だ!汚い!」「楽だ!苦しい!」等々と、あるがままにものを見ていると思いながらも、
全てが自分の心の投影ということも気付かずに区別し、差別している私たちです。
そこに、それは偏った見方ですよ。と教えるものが、仏教の智慧でしょう。
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求道庵通信(第95号)
★ 「智慧」のことを、さらに「般若の智慧」と言うこともあります。
最高の、これ以上ない智慧だからです。
「般若」とは最高の智慧をいいます。決して鬼の面のこととは思わないで下さい。
大乗仏教では、悟りを開くための行法として、六波羅蜜があります。
六波羅蜜とは、悟りに至るためにしなければならない6つの行いということです。
この、6つの行いの内、1つが「智慧」ですが、残りの5つの行い全てが、
「智慧」に裏打ちされたものでないと、本当の六波羅蜜とはならないのです。
それほど仏教では、「智慧」が大切ということになります。
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求道庵通信(第96号)
★ 「智慧」を無分別智ともいいます。
「智慧」は分別無く、平等にあるがままに事物を見て判断することだからです。
一般にいわれる分別、無分別とは意味を異にします。
仏教でいう分別とは、凡夫の囚われの心から事物を見て判断することです。
これは、決して平等な見方や判断が出来ません。
なぜなら凡夫というのは、どれほど平等にものを見ようとしても、
どうしても自分の心を入れてしか見ることができないからです。
ある武道の大会で審判をしていた知人が、都合で自分の子供を採点することになったとき、
「公平に採点したつもりでも、点数が甘くなってしまった。」と話してくれました。
自分の心と照らし合わせても、その気持ちがよく分かります。
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求道庵通信(第97号)
★ 「智慧」の目で見たなら、喩えていうならあらゆるもの全てが、
金色に輝く姿であるのです。あるがままに、夫々がみな輝く存在としてある。
人間であれ、動物であれ、植物であれ、全てが輝いている存在なのです。
うじ虫、毛虫1匹にしてもそうなのです。
しかし私たち凡夫は、自分の我に縛られて、あるがままに見ることができない。
何でも自分の我(思いといってもよいでしょう)を通して見てしまう。
可愛い生き物は殺すなといい、醜くく邪魔な生き物は殺してもかまわないと思う。
美しい、醜い、綺麗、汚い、優れている、劣っている、可愛い、憎たらしい・・・等々、
全てが自分の心の投影にしかすぎないのに、それに気付くこともなく、
当たり前と思い暮らしている。
そうして、自身の気に入ったものは愛し貪り、自分の思いに反するものは、敵と見て邪険にする。
自分では気付きませんが、これが凡夫の本当の姿なのです。
それが、「智慧」の目によって初めて、我欲にまみれ罪を重ねるしかないという
「罪悪深重の凡夫」の姿が明らかになるのです。
その凡夫の姿・存在をはっきりと知るがゆえに、その凡夫を救い、本当の「智慧」の目を
与えずにはおかないというのが、如来(仏様)の心なのです。
阿弥陀如来の「本願」が起こされた理由も、ここにありす。
●{本願]・・・阿弥陀如来の「全ての苦悩の衆生を、
念仏一つ与えて必ず悟りを開かせずにはおかない」という誓いであり願いのこと
・・・詳しくは「求道庵通信第」76号〜第81号をご覧下さい
⇒第76号へ
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求道庵通信(第98号)
★ 一般には「智」と「慧」は同義にも用いられ、
あるいは合わせて「智慧」といいますが、それぞれ「智」と「慧」に分けて解釈する場合もあります。
本来、インドにおける仏教の教えの中では、「智」と「慧」は区別されて理解されていました。
中国においても、厳密に翻訳される場合も区別されています。
一切の事象を見て、その善悪・正邪を区別断定する作用が「智」であるけれども、
その根底には正しくありのままに見る事ができない限り、一切事象の善悪・正邪を
区別判断できないからです。
だからこそ、如来(仏様)にとって、私たち凡夫の姿が悟りとは正反対の方向に進むものと知り、
助けずにはおかれないもの知れるのです。
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求道庵通信(第99号)
★ 私たちもいろいろな事物に対して、の是非正邪を判断をしますが、
判断の基準が各個人によって異なり、他人が自身とは反対の判断をすることもよくあります。
これは各個人が夫々に判断の基準を持っているからです。
たとえば一つの事件にしても地裁と高裁とで判決が変わります。
これは裁判官が、どれ程公平に判決を下そうとしても、そこには裁判官個人の意識するしないに
かかわらず、自身の意識が働いているからです。
間違いの無い判断決定と思っても、各人夫々が異なっているなら、それは決して正しい判断決定とは
いえません。
一切の事物事象を本当にありのまま見て、是非正邪を判断決定するはたらきが「智慧」であり、
これは悟りを開かれた方のみに可能なことであります。
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