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求道庵通信(第76号)
★ 本願とは仏様や菩薩様が、手を差し伸べなければどうあっても
救われようのない者を、仏様自身や菩薩様自身がどんな困難にあっても必ず救うぞと
起こされた願いのことです。
私たちも恵まれない人たちや事故に遭った人たちを救ってあげたい、手を差し伸べて何とか
してあげたいと願いを起こすことがありますね。
12月26日のイランで起こった地震でも、国を超えて何とかしてあげたい、助けてあげたいと
皆も願わずにはおられないでしょう。
悟りの世界から見たならば、生きとし生ける私たち全てが、願いをかけて救わずにはおられない
存在なのです。
<他力本願ということ>
他力本願という場合の他力とは他人の力という意味ではなく、仏様が他のもの(衆生)を必ず救う力のことをいいます。
ですから、他力本願とは他人の力を当てにするということではなく、仏様が衆生を救いたいと願いを
起こされ(本願)、そして仏様の願いに間違いなく衆生を救う力(他力)があることなのです。
したがって、決して自力本願という言葉は有りませんし、有り得ません。
こういうことを知らずに「他力本願ではいけない、自力本願でないと。」などとおっしゃる方が
有りますが、この用い方は間違いです。
しかし、勉強されてるはずの方でも、公共の場で「自力本願で!」とおっしゃる方がありますが、
これは自身の無知を社会にさらけ出しているようなものです。
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求道庵通信(第77号)
★ 本来、覚りを開き仏に成るには、覚りを得ようという心を
起こさなければなりません。この心を菩提心といます。
この菩提心を起こして修行する方を菩薩といいます。
そして、菩薩はただ自分だけが覚りを開き仏に成れれば良いというのではなく、
他の者(衆生)を覚りに導く働きをも兼ね備えなえるものなのです。
ですから、菩薩は自身が仏に成ることを願い目標とするのと同時に、
他の者(衆生)をも仏に成らしめるという願いも合わせて起こします。これが本願となります。
たとえば、結婚して子供が欲しい親に成りたいと願うのと同時に、こんな親に成りたい、
こんな子供に育てたいと思い願うことがあるでしょう。この思い願いに似ていると思います。
しかし人間の場合は、本の願いとは裏腹に、願った通りの親や子にはなかなか成れないものですが・・・。
ましてや最近良く報道される「できちゃった婚」や「できちゃったから仕方なく婚」などは、
生まれてくる子供にとても失礼な気がします。
本当に命はぐくまれる前から願われていたのかと・・・。
願われない者の人生は悲しく空しいもの、願いに気付かない者の人生も悲しく空しいものでしょう。
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求道庵通信(第78号)
★ 「本願」とは菩薩自身の悟りを目的にする願いであると同時に、
それがそのまま苦悩の衆生を救う為に起こされた願いでもあります。
この菩薩の願いには大きく二つあって、一つには「総願」、二つには「別願」といわれます。
☆ 「総願」は全ての菩薩が共通に起こす願いであり、
「四弘誓願」といわれます。
「四弘誓願」は、あらゆる生きものを救いたいという思いから起こされた願いです。
☆ 「別願」は菩薩夫々個別の願いであって、これが阿弥陀仏の四十八願、
薬師仏の十二大願、釈迦仏の五百大願等々といわれるものです。
浄土真宗で「本願」といえば、普通には阿弥陀仏の四十八願の中の、第十八番目の願いを指します。
第十八願とは「全ての苦悩の衆生を、浄土に生まれさせ、悟りを開かせずにはおかない」
という願いです。
この願いが起こされたということは、全ての者が平等に苦しみを抱えて生きている
ということなのです。
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求道庵通信(第79号)
★ 仏に成るということは、自らの悟りを目的にするのと同時に、その悟りが
そのまま一切の衆生を救う働きをすることでもあります。
仏一人が自身の悟りに満足し、他の者がどうなってもよいというのでは、仏の悟りとはいえません。
一切の衆生を救いたいと願う必然として、最高の悟り得たいと願う。これが四弘誓願の内容です。
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求道庵通信(第80号)
★ 厳密に「本願」という場合は、全ての仏が菩薩の位の時に起こされた
大本の願いをいいます。
しかし、普通に「本願」という場合は、阿弥陀仏の四十八願中18番目の願いを指します。
18番目の願いですので、「第十八願」ともいいます。
全ての迷い続ける衆生を、信心一つで必ず救い取るという誓いであり願いです。
この第十八願が、阿弥陀仏の一番の特徴を表す、また得意な願いでもあります。
ここから「おはこ」のことを「十八番」と表記されるようになったといわれます。
○ 〔第十八願文〕…「設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国
乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法」
○ 〔読み下し文〕:たとひ我仏を得んに 十方の衆生 至心に信楽して我が国に
生まれんと欲して 乃至十念せん 若し生まれずば 正覚を取らじ
唯五逆と正法を誹謗せんとをば除く
○ 〔意訳〕:わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、
わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、
わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは
除かれます。『浄土三部経 現代語版』(本願寺出版社)
*註
<わたしの国>:阿弥陀仏の浄土
<五逆>:父を殺す、母を殺す、阿羅漢(聖者)を殺す、仏身に傷を付け出血させる、教団の和を乱す
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求道庵通信(第81号)
★ 阿弥陀仏の「本願」とは「全ての生きとし生けるものを、生死の迷いから
必ず救い取らずにはおかない。できないならば決して阿弥陀仏とは成らない。」
という誓いであり願いです。ですから「誓願」ともいわれます。
この誓願は、五劫という私達には理解することなどできないとても長い時間、
法蔵菩薩が一時の休む間も無く考え抜かれて、考え出された衆生の救済方法です。
なぜ五劫という長時間をかけて、私達の救済方法を考え出されたのでしょうか。
それは、それほどの長時間考え抜かなければ、救われようのない私が在ったからに他なりません。
換言するならば、それほど私達は罪が深く、迷いが深いということです。
○ <劫>…インドの時間の単位。永遠の時間、無限の時間の
ことであり、これを一つの単位とした。したがって五劫とは無限の時間が5回繰り返された
ことになるが、結局は私達には想像することもできない、宇宙的な時間ということになる。
○ 〔劫の譬え〕:色々な譬えが有ります。一つには四十里四方の
大石に、100年に1度天女が降りてきて、天女の羽衣でその大石を一撫でする。
これを繰り返して、この大石が磨り減ってすべて消滅するまでの時間を一劫という。
この譬えにも、石の大きさや年数にも諸説があります。これもそれらの大きさや年数にはほとんど
意味が無く、劫の時間的長さが、私達の理解を超えるものであるということを示すものでしょう。
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求道庵通信(第82号)
★ だんだん話が一般向けには、難しくなってきたと言われてしまいましたので、
原点に帰って解りやすいお話に戻します。
今月からは人間について。
人間といっても他人のことではなくて自分のこと、私自身、貴方自身のことです。
自分のことですから、それぐらい解っているように私達は思いがちです。
よく、私はこういう人物です。と自己紹介される方もいらっしゃいますが、
本当に自分自身を解っている人はあるのでしょうか。
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求道庵通信(第83号)
★ この「私という人間」は、「人間世界の私」であるのです。
この人間世界で他の人たちと関わり合いながら、日々の暮らしをしています。
そうして、その暮らしの中、少しでもより良く生きようと努力し働いているのが私達です。
ところが、生きるために努力し働いているはずなのに、私達の命は死に向かって進んでいる。
遅かれ早かれ、最後は人間としての命を終えてしまう。そして、人間の命を終えた後はどうなるのか
自分自身では解らない。これが私という人間の姿ではないでしょうか。
この姿を知ったならば、とても恐ろしいことであるのに、ほとんどの場合は気付くこともなく、
日々の楽しみを追い求めて一生を過ぎ行くのが、また私という人間の姿でありましょう。
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求道庵通信(第84号)
★ 「私という人間」は、自身が思っているよりも、本当はとても分からない
ものではないでしょうか。
それであるのに、何かしら自分のことを分かっているように思っているのが、またこの
私という人間の姿でしょう。
よく仏教は難しいとおっしゃる方がありますが、仏教が難しいのではなく、この私という人間が、
難しいからなのです。
分かってるつもりの私という人間が、一番分からないからこそ、苦悩が起こってもくるのでしょう。
私の心に間違いないと思っている人ほど、間違いが多いと思います。
ひょとしたら私の思っていることは間違っているのではないかと思う人の方が、自分という人間の
姿に気付いている人でしょう。
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求道庵通信(第85号)
★ 私達は今、手に入らないものがあるとそれを欲します。
そして、それが手に入れば、満足感が得られると思っています。
中には、その求めるものが手に入れば、他には何も要らないと言う方もあります。
確かに一時期はそれである程度は欲望も満たされるでしょう。
しかし、その満足感・達成感が永遠に続く訳は無く、また次に手に入れたいものが出てきます。
それを手に入れてもまた同じことの繰り返し・・・。
何処まで行っても完全永遠の満足を得ることができずに裏切られていきます。
おそらくは最後の望みが自身の健康となってくるでしょう。でも残念ながら、一番信頼できるはずの
自分の身体・心までが、自分の物であるはずなのに、自分の思いに反して裏切って行きます。
結局は裏切られてしまう当てにならないものを、今度こそは裏切られないぞと追い求めて止まず、
何処までも裏切られ続けるのが、私達人間の在り様ではないでしょうか。
それでは本当の安らぎを得ることはできませんよ。と教えて下さるのが仏教です。
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求道庵通信(第86号)
★ 私達にはそれぞれに正しいと思うことがあります。そして、
その正しいと思うことが全ての人に通じることだと、思うことも有ります。
正義という言葉はその代表のようなものでしょう。
しかし、その思いは自分では気付きませんが、全てが我見・我執の思いで偏っています。
そして又他の人は他の人で、その人の偏りの思いがあります。
それに気付かず、又気付いたとしても自身の思いを押し付け合うのが、私達の姿でしょう。
その思いが通ったならば、自身は喜びますが、通された方は怒りを起こします。
その怒りが表に出たときに、争いが起きます。
この繰り返しが人間の歴史と言っても良いのではないでしょうか。
どれほど正義と言い張っても、我見・我執のぶつかり合いなのですから、
本当の正義にはならない。
これでは何処まで行っても、本当の安らぎなど手に入れることはできません。
○ 我見:人間には永遠に変わらない主体があるという誤った考え
○ 我執:自己の考えにとらわれて離れないこと
『仏教語大辞典』中村元 著 より
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求道庵通信(第87号)
★ 私達は、楽しむために生まれてきたと思っている人が、ほとんどでしょう。
楽しみを求めて止まないのが私たちの姿ではありますが、それと同時に、苦悩が付いて回るのは
どうしてなのでしょう。
やはり私達の求める楽しみが、本当の楽しみではないからでしょう。
ところが、本当の楽しみでないものを間違いないものと思い込み、何処までも追い求めようと
するのが、迷いの中の私なのです。
そうしてこのまま、より深い迷いの中に、落ちて行くのでしょうね。
「何時どうなるか分からないのが人生だ」、などと知識では知っていても、いざ何か起こった時には、
なぜこんな目に遭わなければならないのだと嘆き悲しむのも、
人間が迷いの中の存在だからなのです。
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